さんいん‐どう〔‐ダウ〕【山陰道】
読み方:さんいんどう
五畿七道の一。現在の近畿・中国地方の日本海側。丹後・丹波・但馬(たじま)・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・出雲(いずも)・石見(いわみ)・隠岐(おき)の8か国。また、この国々を結ぶ街道のこと。
そとも‐の‐みち【山陰道】
山陰道
蒲生峠越
徳城峠越
野坂峠越
山陰道
山陰道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 03:42 UTC 版)
丹波国 たんば(丹州) 丹後国 たんご(丹州) - 713年に丹波国より分立。 但馬国 たじま/たぢま(但州) 因幡国 いなば(因州) 伯耆国 ほうき/はうき(伯州) 出雲国 いずも/いづも(雲州) 石見国 いわみ/いはみ(石州) 隠岐国 おき(隠州)
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山陰道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 09:16 UTC 版)
「近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「山陰道」の解説
丹波 亀山 (亀岡) 天保14年(1843年)完成の『桑下漫録』によると亀山周辺の町村方戸数は1245軒推定6225人、内城下町分は推定4500人。城下の士族推定3000人(典拠は『亀岡市史』)。明治6年(1873年)の人口は7029人。 篠山 宝暦10年(1760年)の町方人口は2672人(典拠は『丹波多紀郡明細記』)。明治6年(1873年)の人口は5931人。 福知山 慶安2年(1649年)の町方人口は3157人(典拠は『福知山市史』)。明治6年(1873年)の人口は4893人。 丹後 田辺 (丹後田辺, 舞鶴) 天保9年(1838年)の町方人口は6510人(典拠は近松鴻二(1999年))、明治6年(1873年)の人口は9073人。 宮津 明治2年(1869年)の宮津の寺社人口は92人、家中は3,346人、穢多・非人は109人で、総人口は9715人。 元号西暦町方人口享保3年 1718年 7,231 延享元年 1744年 7,193 明治2年 1869年 6,168 明治6年 (総数) 1873年 9,398 (典拠は『丹後宮津志』) 但馬 豊岡 天明8年(1789年)の豊岡町町方人口は3497人(典拠は『豊岡市史』)、明治6年(1873年)の人口は4926人。 出石 元号西暦町方人口明和8年 1771年 5,713 天保11年 1840年 4,383 明治6年 (総数) 1873年 6,796 (典拠は『出石町史』、近松鴻二(1999年)) 因幡 鳥取 武家人口を含めた推定総人口は約3万5000人。 元号西暦町方人口寛延2年 1749年 13,125 文化7年 1810年 10,228 弘化3年 1846年 11,440 明治6年 (総数) 1873年 20,782 (典拠は『新修鳥取市史』) 伯耆 米子 元号西暦町方人口寛延2年 1749年 5,677 文化7年 1810年 7,540 弘化3年 1846年 7,675 明治2年 (総数) 1869年 11,574 明治6年 (総数) 1873年 10,237 (典拠は『新修鳥取市史』) 倉吉 元号西暦町方人口寛延2年 1749年 2,928 文化7年 1810年 3,699 弘化3年 1846年 4,424 明治6年 (総数) 1873年 4,809 (典拠は『新修鳥取市史』) 出雲 松江 明和4年(1767年)の家中人口は、松江藩の武家人口1万6484人より江戸定詰1325人を除いたもの。 元号西暦合計(総数) 家中町方宝暦11年 1761年 28,564 15,019 13,545 宝暦13年 1763年 29,263 15,268 13,995 明和4年 1767年 29,067 15,159 13,908 天明7年 1787年 31,161 15,635 15,526 天保9年 1838年 36,073 15,567 20,506 明治6年 1873年 37,808 (典拠は『松江市誌』、『節山史料』) 杵築(出雲杵築)・今市・平田 (出雲) 寛延年中(1750年頃)の杵築社中(出雲大社境内)の家数は175軒、杵築6ヶ村の家臼は1028軒、合計1203軒。同年の今市の家数は合計769軒(典拠は『出雲市史』)。明治6年(1873年)の杵築の人口は7674人、今市の人口は1703人、平田の人口は3125人。 石見 大森・銀山 17世紀初めの『銀山日記』によると、慶長の頃より寛永年中にかけて(17世紀初期)大森の人口は20万人、家数2万6000軒余とあるが、これらは石見国全域の人口としても多過ぎ信用できない。17世紀中頃には、鉱山柵内の「銀山町」と、代官所の置かれた陣屋町の「大森町」という2地区からなる鉱山町が形成される。寛政12年(1800年)の大森町の家数は385軒(武家69軒、社家4軒、寺院13軒、町屋299軒)。 元号西暦合計大森町銀山町延宝6年 1678年 1,564 元禄5年 1692年 1,871 元禄15年 1702年 2,307 686 1,621 元文5年 1740年 1,467 延享4年 1747年 1,173 文化12年 1815年 1,657 天保9年 1838年 1,242 文久2年 1862年 1,061 明治6年 (総数) 1873年 2,124 1,475 659 (典拠は山陰宗門改帳研究会 『宗門改帳からみる山陰の近世社会 その2』) 浜田 浜田八町町方戸数は享保20年(1735年)に622戸、寛保2年(1742年)に565戸、明和6年(1769年)に569戸、天保7年(1836年)に544戸、嘉永元年(1848年)に597戸(典拠は浜田市誌)。明治6年(1873年)の人口は3943人。 津和野 文化2年(1805年)の津和野藩家中人口5464人中、江戸在中は272人、廿日市在中は92人、大坂在中は22人。嘉永4年(1869年)の津和野藩家中人口5296人中、江戸在中は179人、廿日市在中は80人、大坂在中は25人。 元号西暦総数家中町方文化2年 1805年 7,618 5,078 2,540 弘化2年 1845年 6,782 4,859 1,923 弘化3年 1846年 6,851 4,902 1,949 嘉永3年 1850年 7,069 5,021 2,048 嘉永4年 1851年 7,050 5,012 2,038 明治6年 1873年 7,088 (典拠は亀井茲建(1932年))
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山陰道
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「鳥取県道31号鳥取国府岩美線」の記事における「山陰道」の解説
古代に五畿七道のひとつに定められた山陰道は、京都から但馬国(兵庫県北部)を経て因幡国(鳥取県東部)を通り、伯耆国(鳥取県西部)、出雲国(島根県東部)など東西に通じていた。しかしその古い経路はとくに山間部では不詳な部分が多く、因幡国(鳥取県東部)でも明らかになっていない。 平安時代の延喜式では因幡国に「山埼」「佐尉」などの駅家が記録されているが、これらがどこにあったのかはわかっていない。「山埼」「佐尉」に相当する地名(遺称地)が複数あり、但馬国から蒲生峠を越えて因幡国に入ったあと、因幡国の国庁があった旧国府町に至るルートにはおおまかに2通りの説がある。 このうち、蒲生峠からすぐに南へ転じで十王峠を越えて袋川上流に出て、袋川に沿って国府を目指すルートが概ね現在の県道31号に相当する。
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山陰道
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丹波国 (飛鳥・白鳳寺院数:約7カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考何鹿郡 青野南 綾中廃寺 綾部市資料館・展示 氷上郡 市辺遺跡 三ツ塚廃寺 丹後国 (飛鳥・白鳳寺院数:俵野廃寺のみ) 但馬国は三宅廃寺(豊岡市、袴挟遺跡が出石郡家?但馬国府?)と七美郡殿岡廃寺(香美町)である。 因幡国 白鳳時代から奈良時代:11カ寺(智頭郡のみ見当たらず)、鳥取県で最古は大御堂廃寺、野方・弥陀ヶ平廃寺のいずれかである。 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考八上郡 万代寺遺跡 土師百井廃寺(国史跡) 気多郡 上原遺跡 寺内廃寺・上原南遺跡 高草郡 唯一:菖蒲廃寺 巨濃郡(岩井郡) 唯一:岩井廃寺 伯耆国 白鳳時代から奈良時代:13カ寺(日野郡のみ見当たらず) 郡名比定郡衙比定寺院根拠・備考八橋郡 大高野官衙遺跡(国史跡) 斎尾廃寺跡 会見郡 長者屋敷 坂中廃寺・大寺廃寺 久米郡 久米寺 大御堂廃寺(国史跡) 墨書土器「久米寺」 石見国 古代寺院は下府廃寺(国文化財)ふくめ3カ所 隠岐国 古代寺院は2カ所、高句麗系の瓦が出土している
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「山陰道」の例文・使い方・用例・文例
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