山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡とは? わかりやすく解説

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山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡

名称: 山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡
ふりがな やましなほんがんじなんでんあとつけたりやましなほんがんじどるいあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 京都府
市区町村 京都市
管理団体
指定年月日 2002.12.19(平成14.12.19)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 山科本願寺は、浄土真宗中興の祖である蓮如が、本願寺再興のため、山科の地に文 明10年(1478)から建設開始したのである
 山科本願寺は、江戸期絵図によると御影堂阿弥陀堂等、本願寺堂舎建ち並ぶ御本寺」、法主家族坊官達の屋敷がある「内寺内」、寺に関わる職人商人等の町衆居住区である「外寺内」の3つの郭から構成されそれぞれの郭と外周は、土塁と濠により、厳重に区画することによって、寺内町呼ばれる独立した空間築き上げていた。その寺域は、古図などから東西800m南北1,000mの規模があったものと考えられ極めて城郭要素の強い寺内町形成していたことがわかる。
 延徳元年(1489)、75歳になった蓮如は、法燈を子の実如譲り本願寺東の地に隠居寺を設け住まいとした。この地は、実如の住む北殿に対して南殿称さ れた。南殿は、「御在世山水御亭図」(光照寺)によると、土塁と濠に囲まれ防御 的な面が強い施設200m四方規模を持つていたもの推定される。また一方敷地内には園池設けられ築山構え持仏堂山水亭・台所などを備えた風雅な建物であったこともわかる。
 このように山科本願寺は、兵火さいなまれていた京の都隣接する山科の地に、仏法支配する独自の世界創出しようとしたものであったが、天文元年(1532)に六角氏法華宗徒の攻撃により焼失した
 山科本願寺跡は、現在は京都市公園内残されている巨大な土塁民有地内に土塁跡が一部確認されるにすぎない公園内残され土塁は、内寺内外寺内画する東北隅の部分であり、総延長100m余、高さ9mを測る当該地の地名は「様子見町」といい、この土塁見張り台としての機能示しているものと思われる
 南殿の地は、真宗大谷派光照寺境内地真宗大谷派直轄の地及び民有地として推移してきているが、古図にある築山・池・土塁・濠などが現在も残されている。平成13年度当地においてマンション建設計画され発掘調査結果、現在残っている土塁・濠に続く部分遺構掘立柱建物・柵列・溝などが検出され当時遺構良好に保存されていることが確認された。
 このように山科本願寺南殿跡及び土塁跡は、土塁と濠に囲まれ強固な防御施設備えた中世環濠城塞都市として、かつ一向一揆という歴史上重要な一揆関係した蓮 如遺跡として、我が国歴史を知る上で貴重な遺跡であり、史跡として指定し保護しようとするものである
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