中興の祖
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中興の祖(ちゅうこうのそ)とは、一般に「名君」と称される君主または統治者のうち、長期王朝、長期政権の中途、かつ危機的状況後に政権を担当して危機からの回復を達成し、政権の安定化や維持に多大な功績があったと歴史的評価を受ける者をいう[1]。
概要
長期政権は創業期の後に繁栄期を迎えるが、繁栄期は則ち爛熟期であり、外征や奢侈による財政悪化や制度疲弊、危機意識の欠如、綱紀弛緩による政治腐敗によって政治、軍事、経済など様々なフェイズにおいて危機的状況が発生する。
中興の祖と称される人物は税制、財政の改革、人材の登用、治安回復、外交の安定などに意を用い、危機的状況を改善、回復し国家経営を立て直した人物である。
このため、政権中途で国家を発展させた人物、また政権の最盛期を現出させた人物であっても、創業者の業績を継承、整理することで業績を上げた人物(唐の太宗、徳川秀忠、徳川家光など)や創業期から蓄積された資本により業績を上げた人物(漢の武帝、唐の玄宗、永楽帝など)は中興の祖とは呼ばれない。
中興の祖と呼ばれる人物であっても、唐の徳宗、清の同治帝など名目だけで必ずしも実績が伴っていない場合も存在する。
中興の祖と呼ばれる人物
脚注
- ^ これが転じて、老舗と呼ばれる企業において、創業者が経営から退いた後に業績拡大に大きく貢献した経営者のことを指す場合もある。
関連項目
中興の祖
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九谷庄三(くたにしょうざ、文化13年(1816年)-明治16年(1883年)は、寺井村(現在の能美市寺井町)の農家に生まれた。17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現在の志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与える。26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。
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「中興の祖」の例文・使い方・用例・文例
- 中興の祖
- 明治中興の祖
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