中興の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 10:18 UTC 版)
第6代となった高慶(高定)は乱れた藩政を再建するため、規律を定めて文武を奨励し、産業振興に尽力した。また倹約に務めて不正を許さず、病気と称して酒色と遊芸に溺れ他家からの養子と侮る家老を領外追放あるいは免職退隠させた。城内には学習所を開設して後の藩校創設の基礎を築いた。高慶は災害対策にも力を注ぎ、宝永4年(1707年)10月4日の宝永地震(佐伯の推定震度は6)の被害を受けて津波対策のために堤防を築造。また地震の2年前に大火が発生した翌年に消防組織を創設し、3年後には指揮命令系統を整備するため火消奉行を編成した。このように大規模な藩政改革を行なった高慶の時代は40年間余に渡って続き、佐伯藩の中興の祖、英主と讃えられた。 第7代の高丘も祖父の藩政改革を引き継ぎ、不正を理由に家老や奉行を罷免した。しかし高丘の時代には藩財政が逼迫、借金に借金を重ね利子払いが精一杯という破綻寸前の状態に陥った。そのため、専売の強化や塩の自由売買を禁止するという統制経済、規制強化を行なって財政再建を図った。 第8代藩主高標は、中興の祖として知られている。3度の倹約令を徹底し、200石以上の俸禄を半減し、諸事経費の半減と支出の削減に努め、藩札を発行、藩財政の立て直しを図った。また、文教政策にも力を注ぎ、安永6年(1777年)、藩校「四教堂」(しこうどう)を開き、天明4年(1784年)には蔵書が8万冊にも達する「佐伯文庫」を設け藩士に広く活用させた。後に10代高翰は佐伯文庫の貴重本2万冊を江戸幕府紅葉山文庫・昌平黌に寄贈している。しかし高標の時代には天災や火災が集中して発生し、これにより領民の生活は窮乏して藩財政も危機的状況に陥った。文化9年(1812年)1月には4000人からなる百姓一揆も発生し、それを鎮圧する藩の軍と交戦して死傷者を出した。
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