科挙とベトナム文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:35 UTC 版)
聖宗は先代の前廃帝黎宜民が目指した官僚主導の政権の構築を目指し、「光順中興」の時代に聖宗の治世から始まった科挙制度が確立された。受験者の資格の制定(儒教の徳目に反する者は郷試の受験が認められなかった)、会試の方法の改定によって合格者の質の向上を図り、制度の確立に貢献があったのは仁宗、聖宗の治世に登用された科挙官僚であった。合格者の名前は石碑に刻まれ、そこにはベトナム史に残る政治家、学者、文人の名前が多く記されていた。科挙による朱子学の振興と試験を通過した文人官僚の増加は、史学とベトナム漢文学の隆盛ももたらした。ベトナム各地の伝説を集めた『嶺南摭怪(中国語版)』の編纂、呉士連によって献上された、それまでのベトナム史書の集大成である編年体の通史『大越史記全書』の完成が聖宗期の史学界を代表する出来事として挙げられる。 文人官僚だけでなく聖宗自身も詩作を好み、文芸サロンの騒壇(タオダン)会(ベトナム語版)を主宰するほどだった。その著作には、漢文による『瓊苑九歌』『珠璣勝賞』『征西紀行』『明良錦繍』『文明古師』『古心百詠』、チュノムを用いた『洪徳国音詩集』、詩集『天南余暇集(ベトナム語版)』がある。 聖宗は軍部で要職の多くを占めていた清華出身者を抑えるために、科挙合格者に南策出身者を多く加えた。死後は長男の憲宗が跡を継ぐが、清華出身の軍人と南策出身の新興官僚の対立が深まり、後黎朝は次第に衰退期に入ることになる。
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