光順中興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:35 UTC 版)
明の制度にならい、相国を廃止して朝廷に六部を設置した。六部は吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部で構成され、翰林院・国史院・御史台が専門機関として設けられた。洪徳14年(1483年)に律令『洪徳法典(国朝刑律)(中国語版)』を公布し、中央集権制度の整備に尽くした。『洪徳法典』は中国的な封建制を基盤としてベトナム本来の法律と慣習を成文化したものであり、女性の権利の保護に関わる条文も存在した。 地方制度も整え、国土を13の承宣(トゥアティエン)に分けて昇龍を中都府に定め、承宣の内部を府県に細分化した。王朝初期からの土地制度を改良、紅河デルタ一帯に均田制を施行した。公田は6年に一度の検地に基づいて農民に公平に分配され、税収と兵数の把握に役立った。また、紅河デルタに存在していた集落を社(サー)(英語版)という区画にまとめ上げ、社は徴税・徴兵・公共事業の単位として機能した。1954年にベトナム民主共和国によって行われる土地改革まで、500年近くの間公田と社が紅河デルタ地方の土地制度を形成した。 中国の史書『明史』においても聖宗の治績は称えられ、「光順中興」と呼ばれるその治世はまさに後黎朝の全盛期であった。
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