光風会との出会いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 光風会との出会いの意味・解説 

光風会との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 00:12 UTC 版)

朝井閑右衛門」の記事における「光風会との出会い」の解説

昭和7年1932年)ごろ、光風会会員平岡権八郎知遇を受け、東京府東京市京橋区三十間堀朝日石綿ビル現在のアスク銀座ビル)の5階にあった彼のアトリエ居候する。平岡実家は同区竹川町現在の東京都中央区銀座)で日本料理屋「花月」を経営しており、昭和11年1936年)ごろまでアトリエ花月行き来する生活を送る。平岡アトリエには大河内信敬伊藤悌三今村俊夫角野伴治郎らが出入りしていたが、平岡は特に朝井可愛がり、製作中誰も入れなかったアトリエ朝井だけは入ることを許されたという。 同年5月時の文部大臣松田源治によって帝国美術院改組発表される在野の有力作家を官展取り込み美術界挙国一致体制を築くことが主な目的だったが、情実選考弊害を除くために帝展無鑑査をいったん白紙したため美術界空前大混乱招いたパトロン市場の裏付けがある第一部とは異なり東京美術学校養成され洋画家多くにとっては、帝展無鑑査がほぼ唯一画家としてのアイデンティティ保証するのだったため、反発激しかった同年6月3日平岡権八郎太田三郎牧野虎雄石川寅治辻永上野山清貢ら、第二部無鑑査六十数名花月集結して不出品の連判状作成したその後不出同盟は新団体第二部会」を結成し帝展延期空いた東京府美術館で独自の展覧会開催する朝井はこのとき『考古学者其の家族』を出品し文化賞選ばれた。 昭和11年1936年4月第23回光風会展に『自画像』(茨城県近代美術館)『ロリルの踊り』(神奈川県立近代美術館)が入選し光風会会友推挙される。同年6月松田のあとを受けた平生釟三郎事態収集するために再改組案を発表した帝国美術院主催招待展と、文部省主催鑑査展とに分け、旧無鑑査組を招待展に組み込むことによって懐柔ようとしたのである。これがいわゆる昭和11年文展」であり、第二部会は同年7月6日総会平生案の支持議決する(これに反対して離脱した光風会猪熊弦一郎内田巌小磯良平中西利雄ら、藤島武二門下の6名によって新制作派協会結成されることになる)。朝井鑑査展に500号の大作『丘の上』(神奈川県立近代美術館)を出品、最高賞である文部大臣賞受賞するそれまでほとんど無名であった朝井一躍画壇寵児として注目を集める事となった。 昭和12年1937年2月第24回光風会展に『ナルシース』『ギタリスト』(横須賀美術館)『星を高ふピエロ』を出品し光風会会員推挙される。この年柳亮推薦により日本大学専門部芸術科油彩画講師となる。

※この「光風会との出会い」の解説は、「朝井閑右衛門」の解説の一部です。
「光風会との出会い」を含む「朝井閑右衛門」の記事については、「朝井閑右衛門」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「光風会との出会い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「光風会との出会い」の関連用語

光風会との出会いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



光風会との出会いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの朝井閑右衛門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS