光風会との出会い
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昭和7年(1932年)ごろ、光風会会員平岡権八郎の知遇を受け、東京府東京市京橋区三十間堀の朝日石綿ビル(現在のアスク銀座ビル)の5階にあった彼のアトリエに居候する。平岡の実家は同区竹川町(現在の東京都中央区銀座)で日本料理屋「花月」を経営しており、昭和11年(1936年)ごろまでアトリエと花月を行き来する生活を送る。平岡のアトリエには大河内信敬、伊藤悌三、今村俊夫、角野伴治郎らが出入りしていたが、平岡は特に朝井を可愛がり、製作中は誰も入れなかったアトリエに朝井だけは入ることを許されたという。 同年5月、時の文部大臣松田源治によって帝国美術院の改組が発表される。在野の有力作家を官展に取り込み、美術界の挙国一致体制を築くことが主な目的だったが、情実選考の弊害を除くために帝展の無鑑査をいったん白紙にしたため、美術界に空前の大混乱を招いた。パトロンや市場の裏付けがある第一部とは異なり、東京美術学校で養成された洋画家の多くにとっては、帝展無鑑査がほぼ唯一、画家としてのアイデンティティを保証するものだったため、反発は激しかった。同年6月3日、平岡権八郎、太田三郎、牧野虎雄、石川寅治、辻永、上野山清貢ら、第二部の無鑑査級六十数名が花月に集結して不出品の連判状を作成した。その後、不出品同盟は新団体「第二部会」を結成し、帝展の延期で空いた東京府美術館で独自の展覧会を開催する。朝井はこのとき『考古学者と其の家族』を出品し文化賞に選ばれた。 昭和11年(1936年)4月、第23回光風会展に『自画像』(茨城県近代美術館)『ロリルの踊り』(神奈川県立近代美術館)が入選し、光風会会友に推挙される。同年6月、松田のあとを受けた平生釟三郎は事態を収集するために再改組案を発表した。帝国美術院主催の招待展と、文部省主催の鑑査展とに分け、旧無鑑査組を招待展に組み込むことによって懐柔しようとしたのである。これがいわゆる「昭和11年文展」であり、第二部会は同年7月6日の総会で平生案の支持を議決する(これに反対して離脱した光風会の猪熊弦一郎、内田巌、小磯良平、中西利雄ら、藤島武二門下の6名によって新制作派協会が結成されることになる)。朝井は鑑査展に500号の大作『丘の上』(神奈川県立近代美術館)を出品、最高賞である文部大臣賞を受賞する。それまでほとんど無名であった朝井は一躍画壇の寵児として注目を集める事となった。 昭和12年(1937年)2月、第24回光風会展に『ナルシース』『ギタリスト』(横須賀美術館)『星を高ふピエロ』を出品し、光風会会員に推挙される。この年、柳亮の推薦により日本大学専門部芸術科の油彩画講師となる。
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