かんりん‐いん〔‐ヰン〕【×翰林院】
翰林院
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翰林院(かんりんいん、満州語:bithei yamun)は、唐の玄宗が開元26年(738年)に設けた翰林学士院がその起源で、唐代中期以降、主に詔書の起草に当たった役所のことをいう。元代には国史院と統合されて、翰林国史院と呼ばれていた[1]が、明代には旧に復した。大順では弘文館と呼ばれた。清代では、いわば皇帝直属の秘書室となり、書物の編纂、詔勅の起草などを行った。貯才の地ともいわれ、有為な人材を確保し、勉強や実務の見習をさせ、必要があるときに中央官庁や地方の要職に任命する。
- 1 翰林院とは
- 2 翰林院の概要
翰林院(かんりんいん)
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「彩雲国物語の用語」の記事における「翰林院(かんりんいん)」の解説
文学、書芸、図画など芸術関連の局を管轄する。長官は高齢により引退、後任は保留になっている。現実の翰林院は詔勅の起草などを担う。
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翰林院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:31 UTC 版)
呉中行(中国語版)(演:丁正勇) 朝廷の官吏。翰林院編修。王正林の部下。張居正の門下生ではあるが、張居正が奪情(※ごく例外的に「守制」を行わず、引き続き官界に留まること)を行った際は、これに猛反対。その結果、万暦帝の逆鱗に触れ、杖刑に処された上で辺境に流罪とされた。しかし張居正が死去すると、張居正の一派を粛清したいと目論む万暦帝に呼び戻され、恩赦を受けて中央官界に返り咲いた。 趙用賢(中国語版)(演:劉旭) 朝廷の官吏。翰林院修撰。王正林の部下。張居正の門下生ではあるが、張居正が奪情(※ごく例外的に「守制」を行わず、引き続き官界に留まること)を行った際は、これに猛反対。その結果、万暦帝の逆鱗に触れ、杖刑に処された上で辺境に流罪とされた。しかし張居正が死去すると、張居正の一派を粛清したいと目論む万暦帝に呼び戻され、恩赦を受けて中央官界に返り咲いた。
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「翰林院」の例文・使い方・用例・文例
- 翰林院という役所
翰林院と同じ種類の言葉
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