科挙の弊端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/31 03:48 UTC 版)
科挙に対する弊端は李氏朝鮮中期以後に持続的に挙論された。 まず科挙を行う場所と応試者の数が問題になった。李氏朝鮮後期の北学派の学者だった朴趾源は自身の文「賀北隣科」(『燕巌集巻之五』所収)で「科挙場に入ろうとする応試する人だけで数万人になり、科挙場に入って行く時からお互いに押しのけて踏み付けて、たまらなくてけがをする人々が多かった」と記録している。また数万名の答案を三四人の官吏が採点したので、遅く提出する人の答案は事実上埋もれてしまった。そして課題を早く確認して素早く答を書き出すために、三四人が組を組んで戦争するように科挙試験に応じたと言う。先に下人たちが体当りを辞さず良い席を確保すれば(先接クン)、良い文章で作文する人が文を作って、一緒に来た代筆家が字を書いて提出する場合が多くあった。事実上代理試験が盛行したのだった。 地方配分も大きい問題の種の一つだった。西北(黄海道及び平安道地域)に対する差別は、洪景来の乱が起きた原因の一つに指目される。
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