科挙と貴族政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
唐代は南北朝時代からの風潮を引き継いで、権門貴族が強い影響力を保持していた。皇室の李氏を含め唐の支配者層を形成したこれらの集団は、いずれも多くが関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。 関隴貴族は鮮卑系北朝貴族であり、この他には主に漢族の流れを汲む山東貴族、南朝の流れを汲む南朝貴族がある。家門の家格という考え方は魏晋南北朝時代を通して維持され、唐が建国された後でも長い歴史を持ち最高の名門とされる山東貴族は、影響力には乏しいが家格は依然として高かった。 家格が高い家と婚姻関係を結び自らの家格を上げることが広く行われたが、この場合は下の家格の者が上の家格の者に莫大な結納金を積むのが常であった。太宗は皇室と外戚の権威を高めるべく、貴族を格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、山東貴族の家門が第一等、皇室の李氏が第三等だったため、唐の官制に基づき皇室の李氏や親族を第一等・第二等とするよう命じた。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。これは、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたことを示している。 貴族は政治への影響力の源泉として、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を握っていた。 高位の官僚には課役の免除、刑罰を金銭で贖えるなどの特権が与えられ、また資蔭と呼ばれる親の官品に応じて子が任官できる制度があった。唐の政治は概ね貴族により運営されていた。 一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。さらに前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。 武則天は関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の反感を買っていた。そこで武則天は科挙を通過する新興富裕層を積極的に引き上げ、権力の安泰を計った。 しかし武則天の時代は新興富裕層を厚遇するあまり、大地主による土地の併呑が横行し、農民が田地を失って小作となる事例や逃亡して奴婢となる事例が蔓延、また同じく唐初以来厳格に行われてきた版籍の調査を甘くして、官位の低い新興富裕階級による土地の併呑や奴婢を囲い込みに便宜を図った為に隠田や脱税が横行、玄宗時代に税制改正が行われる原因となった。 中期以降の唐では、基本的には上位の官職に就けない状態ではあったが、科挙出身者が徐々に官界に進出する。また貴族出身にも科挙を受験する者が増える。
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