制度の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:59 UTC 版)
その後しばらくは、李王家の扱いは法的に定まっていなかったが、1916年(大正5年)に王世子李垠と梨本宮家の方子女王の間に縁談が持ち上がり、李王家の法的関係を定める必要が生まれた。11月4日に枢密顧問官伊東巳代治を総裁とする「帝室制度審議会」が設立され、折から問題となっていた皇室令改正とあわせて李王家の問題も扱われることになった。 審議の結果、王公族制度は日韓併合条約とその後の詔書に基づくこと、身分は皇族に準じ、臣籍ではないことなどを基本とした「王公家軌範案」が作成され、「皇室令」によってこれを公布するという形を取ることとした。しかしこれは枢密院では否決されてしまい、採択に至らなかった。枢密院は皇族以外の存在である王公族の身分を皇室令で定めることには反対であり、一般臣民の規定同様法律の制定によって定めるべきであると主張した。これは元老山縣有朋の強い影響下にあった枢密院が、伊東の影響力が増大することを恐れていたという背景もある。一方で枢密院は李垠と方子女王の結婚自体については賛同しており、皇室典範を増補して王公族を皇族の結婚相手として認める案が出された。しかし帝室制度審議会の伊東と平沼騏一郎は王公族と皇族が同族ではないと明示するような増補には強硬に反対した。天皇の沙汰という形になっている縁談を中止することはできず、政府と宮内省は帝室制度審議会の反対を押し切って皇室典範の増補に踏み切った。1918年(大正7年)11月2日、皇室典範増補は皇族会議の満場一致で採択され、12月1日に正式に李垠と方子女王の婚約が成立した。 1922年(大正11年)に山縣が没し、伊東の勢力が拡大したことと、旧山縣閥の一木喜徳郎が宮内大臣に就任し、皇室制度改革に協力的になったことで、王公家軌範制定の道筋がつけられるようになった。こうして「皇室令によって王公族の身分を定めることを、法律によって認める」ことで法的な疑義を解消する方針が固まった。1925年(大正14年)11月10日に王公家軌範案が隠居規定の創設など細部修正の上で枢密院可決された。王公族の扱いを皇室令によって定めることができるとした「王公族ノ権義ニ関スル法律」(大正15年法律第83号)は、3月23日に帝国議会で可決されており、これが12月1日に公布され、これを受けて同じ12月1日に皇室令第17号として「王公家軌範」が公布された。 軌範に基づき皇族における皇族会議と同機能を持つ王公族審議会が設置された。王公族審議会は総裁及び審議官をもって組織され、総裁は宮内大臣の奏請により枢密院議長枢密院副議長及び枢密顧問官の中より勅命され、審議官は10人とし宮内大臣の奏請により親任官勅任官及び朝鮮貴族の中より命ぜられた。 1927年(昭和2年)からは宮内省図書寮において王公族の登録簿である「王公族譜」の編纂が開始された。
※この「制度の確立」の解説は、「王公族」の解説の一部です。
「制度の確立」を含む「王公族」の記事については、「王公族」の概要を参照ください。
- 制度の確立のページへのリンク