日韓併合条約とは? わかりやすく解説

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にっかん‐へいごうじょうやく〔‐ヘイガフデウヤク〕【日韓併合条約】

読み方:にっかんへいごうじょうやく

明治43年(1910)日本韓国併合するにあたって結ばれた条約。これにより韓国日本の完全な植民地となり、朝鮮総督府による支配下置かれた。→韓国併合


韓国併合ニ関スル条約

(日韓併合条約 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 12:33 UTC 版)

韓󠄁國倂合ニ關スル條約󠄁
韓國倂合에關한條約
「韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。
大韓帝国の内閣総理大臣李完用名前や、最後の皇帝純宗である署名が見える。
通称・略称 韓国併合条約
日韓併合条約
署名 1910年8月22日
(日:明治43年 / 韓:隆熙4年)
署名場所 大韓帝国 漢城
発効 1910年8月29日
現況 失効
失効 1965年12月18日日韓基本条約に基づく)
締約国 大日本帝国
大韓帝国
文献情報 明治43年8月29日官報号外条約第4号
言語 日本語/朝鮮語
主な内容 韓国日本への併合
条文リンク

韓國併合ニ關スル條約』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

中野文庫
ウィキソース原文
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韓国併合ニ関スル条約(かんこくへいごうにかんするじょうやく、朝鮮語: 한일병합조약 / 韓日倂合條約)とは、1910年(日: 明治43年 / 韓: 隆熙4年)8月22日漢城府(現ソウル特別市)で寺内正毅統監李完用総理が調印し、同年8月29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝天皇)に譲与する」等の内容を規定した条約である。

大日本帝国は、この条約に基づき大韓帝国を併合した(韓国併合を参照)。通称は「韓国併合条約」や「日韓併合条約」。韓国では「韓日併合条約한일병합조약 / 韓日倂合條約)」と呼ばれている。

調印された条約文書、並びに明治天皇純宗がそれぞれの国に発した勅諭[注釈 1]は、大韓民国ソウル大学奎章閣に保管・展示されている。

全文

条約の全文は、右infobox条文リンク『韓國併合ニ關スル條約』参照。

条約公布に際し大韓帝国皇帝(純宗)が公布した勅諭

勅諭[注釈 1] 邦訳
皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年八月二十九日 御璽[1]

条約に関する論争

世界的に「『韓国併合ニ関スル条約』は当時の国際法上、合法であった」とするのが多数派である。違法論は現在では、大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)以外の国では少数派である(#現代の議論参照)。

合法論側の主張

合法の根拠は17世紀頃からヨーロッパで創生され発展した韓国併合当時の万国公法国際法)である。日本と韓国は正式な文書で併合条約を交わしている。国家元首による条約の署名・捺印も必ず要するものではなく、また、本条約は批准を必要とする条約とされていない。一部学者が主張する韓参政に対する個人的脅迫も、証拠に乏しく、違法論の根拠にはならない。

無効論側の主張

日朝修好条規にて「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」とされ、日本國と朝鮮國(李氏朝鮮)の二国間条約では自主の国と認めている。しかし、その後の日韓協約や韓国併合ニ関スル条約締結時に朝鮮國側は外務大臣の署名のみで“当時自主の国間では必要とされた批准と署名”[注釈 2](朝鮮國国王による)はされず、公布はいずれも日本が単独でおこなっている。

現代の議論

韓国政府は日韓基本条約の交渉の過程から一貫して無効論を提示しているが、条約上は「もはや無効である」との妥協的表現で決着している。学術面では岩波の「世界」誌上で日韓の学者がかつて争ったことがあったが決着がつかず、アメリカハーバード大学のアジアセンター主催で国際学術会議、韓国併合再検討国際会議が開かれることになった。これは韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援のもとに、韓国の学者たちの主導で準備されたものだった。韓国側の狙いとして、国際舞台で不法論を確定しようと初めから企図し、そのために国際学術会議を持ったのであり、それを以って謝罪と補償の要求の根拠にしたかったとする見方がある[2]

2001年にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた韓国併合再検討国際会議において韓国併合の合法性が論議された。韓国や北朝鮮の学者は無効・違法論を展開したが、欧米の国際法学者らからは異なる見解が出された。

イギリスのケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授(国際法)は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦1914年 - 1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」と反論されたほか、併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出された。

またこの会議では、朝鮮学会原田環から、併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国を保護国にした日韓保護条約1905年)について、皇帝(国王)の日記など韓国側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする見解を新たに紹介している[3][4]

日韓両国による「無効確認」

韓国併合ニ関スル条約は、1965年(昭和40年)に締結された日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)第2条で、日韓議定書第一次日韓協約第二次日韓協約第三次日韓協約と共に「もはや無効であることが確認される」と規定されている[注釈 3]

脚注

注釈

  1. ^ a b 寺内と李の8月22日付「覚書」には「併合条約及両国皇帝陛下ノ詔勅ハ総テ双方打合ノ上、同時ニ交付スルコト」とある(海野福寿編「外交史料韓国併合(下)」724頁)。海野は史料解説で「『双方打合』としていたから統監府が作成・交付にかかわったと見られる」とする(同書636頁)。寺内は8月27日午後2時30分京城発の文書で本国小村外相に対し「日韓併合ニ関スル韓帝ノ詔勅文ハ別紙ノ通決定シ」、同日午後6時55分京城発の文書で再度小村外相に対し「前電韓皇詔勅文左ノ通修正セラレタリ」と経過を報告している(同書731頁)。
  2. ^ これは併合条約無効論者による主張である。日韓関係は日朝修好条規から併合条約に至る主要な16本の条約について、大半のものは批准条項はなく、また署名は全権委任された者による署名であった。(海野福寿 1999, p. PDF 8)
  3. ^ この4条約は全て、無効となる本条約が結ばれた1910年8月22日以前の締結である

出典

  1. ^ 名越二荒之助「日韓共鳴二千年史 ―これを読めば韓国も日本も好きになる―」、明成社
  2. ^ 古田博司「東アジア「反日」トライアングル」(文春新書)
  3. ^ 2001年11月27日 産経新聞
  4. ^ 原田環「韓国・北朝鮮の嘘を見極める」(文春新書)

文献情報

関連項目

外部リンク


日韓併合条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)

日朝関係史」の記事における「日韓併合条約」の解説

朝鮮半島では抵抗続いた活貧党両班富豪日本の鉱山主や鉄道事業者襲撃して、小作農貧民生活改善のための政策要求をした。要求には穀物輸出禁止開港場以外の外国商人進出禁止鉄道敷設禁止なども含んでいた。日露戦争後にも義兵運動起き日本軍治安維持出動した武装闘争とは異な路線として、独立協会継承して国権回復目的とする愛国啓蒙運動起きた愛国啓蒙運動自国歴史知って愛国心高めることを目的として、都市住民各地両班参加して教育出版による言論活動行った義兵愛国啓蒙運動は、日本統治時代朝鮮独立運動基盤となった朝鮮からロシアへ移住をして抗日運動を行う朝鮮人増えてウラジオストックには新韓という朝鮮人街ができて抗日運動にも活用された。 日本第一次日韓協約により、韓国財政外交顧問日本推薦者をおいた。第二次日韓協約により、韓国外交権日本譲渡し日本保護国となった高宗ハーグ平和会議に、日本干渉排除し韓国外交権保護要請する密使派遣するが、既に日本権益認めていた列強からは認められなかった。このハーグ密使事件により、李完用らの勢力皇帝退位へと動き大韓帝国議会高宗退位させる第三次日韓協約日本設置した韓国統監府によって内政日本管理下に入り韓国軍解体された。統監となった伊藤博文は、経済面から日韓併合反対して保護政策継続主張した伊藤同じく併合反対派曽禰荒助次期統監とするが、伊藤暗殺曽禰療養によって山縣有朋らの陸軍閥が対韓政策を主導する。こうして日本は日韓併合条約によって韓国併合行った

※この「日韓併合条約」の解説は、「日朝関係史」の解説の一部です。
「日韓併合条約」を含む「日朝関係史」の記事については、「日朝関係史」の概要を参照ください。

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