春生門事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/15 17:46 UTC 版)
| 春生門事件 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 춘생문사건 |
| 漢字: | 春生門事件 |
| 発音: | チュンセンムン サコン |
| 日本語読み: | しゅんせいもんじけん |
| ローマ字: | Chunsaengmun-sagon Incident |
春生門事件(しゅんせいもんじけん、チュンセンムン サコン)とは、1895年11月28日、朝鮮においてロシア公使の同意や米国人らの協力を得て親露派の元農商工部大臣李範晋が、李氏朝鮮・漢城府(ソウル)の景福宮春生門(現在の青瓦台春秋館の位置)から一部親衛隊を率いて押し入り、日本軍や親日派の勢力の下にあった国王の高宗を宮廷外に脱出させ、議政府総理大臣金弘集の罷免、親米・親露派を中心にした反日派政権内閣の樹立を企てた事件[1]。乙未事変に対するカウンタークーデターとされる。
10月8日の乙未事変以来、高宗と王太子は事実上日本側と親日派の監視のもとにあり、いつ毒殺されるか判らないと怯えて暮らし、ロシア公使館や米国公使館から鍵のかかった箱で信頼できる者に食料を届けてもらう有り様であった。そのような中で高宗を安全な地域に脱出させるため決行されたが、一部親衛隊の裏切りもあり、守備隊の抵抗や駆け付けた者らの説得等により襲撃側は四散、高宗を奪い詔命を得る目的は達成できなかった[2]。襲撃計画に関り捕らえられた主だった者は、その後、死刑・無期・懲役などの各種判決を受けることになった。親露派・親米派らと見られる者らはそれぞれの公使館に保護を求めて逃込み、潜伏することとなった。朝鮮旧侍衛隊王宮襲撃事件ともいう。
経過
- 7月6日 金弘集、総理大臣を更迭される
- 閔妃、李範晋に命じて閔派内閣を組織、金弘集等を暗殺する計画を立案
- 10月6日 閔派、訓練隊の解散と武装解除を通告
- 10月8日 乙未事変
- 11月27日 李範晋と李敏宏、景福宮襲撃に関する諸般の準備開始
- 11月29日
- 午前1時頃 3発の号砲と共に一群の兵士(約兵士800人に刺客40人)は景福宮春生門前に押寄せ開門を叫ぶ
- 春生門の守備隊は4小隊 中隊長李謙済・小隊長李承奎・同李祖鉉・同権某 大隊長李範来
- 暴徒の一手(約200人)、春生門の西側の北墻門に押寄せ、門扉を破壊して闖入。守備へは訓練兵5名→4名逃走 伍長は捕縛されるが 歩哨の兵6名他より暴徒は逃走
- 大隊長李範来(1隊)が北墻門より暴徒に説聞
- 臨時光化門の守備兵1小隊を春生門にむける
- 暴徒は退却し、隊長李道徹・中隊長南万里・同李奎泓及び刺客4名、兵士5名を捕縛。(暴徒自から隊長李道徹を捕えて投降)
- 暴徒の別働隊は尚門外に集結
- 魚允中の説得で暴徒一同は其営舎に向て引きあげる。
- 米国人「リゼンドル」「アンダーウード」「アツペンゼイラ」「エビソン」「ニンステツド」「ダイ」等6人も宮殿に突入しようとピストルを出して威嚇するが、哨兵に拒絶される。
- 米国人宣教師 「アンダーウード」「エビソン」は宮殿内に潜入
- 高宗の前に出たアンダーウッド、引きあげる。
首謀者と処分
露米両館内に潜匿した以外の者については以下の通り。
一等を減じ就役も免じる措置
本来笞100懲役3年からの免除措置
参考文献及び外部リンク
- アジア歴史資料センター Ref.A04010020500 朝鮮京城事変ノ顛末ニ関シ小村弁理公使ヨリ報告ノ件
脚注
- ^ 高橋 克己. “韓国三・一運動100周年:唯一日本人が胸に刻むべき事件”. アゴラ研究所. 2025年10月16日閲覧。
- ^ 李軫鎬の内通により、未遂に終わったという説もある。
- ^ のちの淸安君
関連項目
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