事大政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 00:54 UTC 版)
一方閔妃は、この事件により清に事大していくことになり、開化派の反発を受けるようになる。1884年、開化派金玉均を中心とした勢力は甲申政変を起こして閔氏一族を排し、一時政権を握ったものの、駐留清軍により駆逐され失敗に終わる。 高宗と閔妃は清への事大主義に傾倒していくが、対外政策も国内政策も混乱を極め、国内では東学党を中心とした勢力が農民の間に広まり、「保国安民」と「弊政改革」を旗頭に1894年、甲午農民戦争(東学党の乱)を勃発させる。この混乱を朝鮮王朝は自力で収拾できず、清軍へ援軍を依頼した。清軍が投入されたことで日本は邦人保護のために軍隊を動員し、日清戦争(1894年-1895年)の原因を生み出す。朝鮮日報によると高宗は米国公館に避難しようとし、独自の兵力では不可能なために戦時や内乱のたびに外国軍を招いた。 この戦争は、欧米列強の支持を受けた日本軍の勝利に終わり、下関条約を締結することになる。これにより朝鮮は、清の従属国の立場から独立国家として承認されることになるが、清の後盾を失った閔妃は、今度はロシアと結んで日本に対抗しようとした。 この動きを警戒した日本公使・三浦梧楼や開化派、大院君などの勢力が閔妃排斥の動きに出て、1895年10月8日、閔妃暗殺事件(乙未事変)が起こっている。金弘集内閣は犯人として李周会・朴銑・尹錫禹の三名を死刑とし、日本国内では三浦らを嫌疑不十分として釈放した。 閔妃暗殺事件に日本軍が関わっていたと報じられると、国内は親日派勢力と抗日勢力が対立し、カウンタークーデターとして春生門事件(1895年11月28日)を起こし、金弘集総理らを殺害し王を奪おうとした。しかし、この計画は親衛隊大隊長の李軫鎬の内通により、失敗に終わった。
※この「事大政策」の解説は、「高宗 (朝鮮)」の解説の一部です。
「事大政策」を含む「高宗 (朝鮮)」の記事については、「高宗 (朝鮮)」の概要を参照ください。
- 事大政策のページへのリンク