事変から戦後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 19:32 UTC 版)
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を端緒とする日中戦争について、大日本帝国政府は「今回の事変を支那事変と呼称する」と決定した。ここで戦争とせず事変としたのは宣戦布告によって戦時国際法に拘束されることを日華両国が望まなかったためである(宣戦布告した場合、中立国から武器を輸入することが出来なくなるなどの問題が起きるため)。 当時の日本では「支那」ないし「支那人」の呼称が一般的であったが、支那という言葉は、日清戦争以降、日支親善などと両国の頭文字を使って用いることもあった。中国政府や中国人を非難するときにたびたびセットで使われた。このような表現としては「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}暴戻(ボウレイ)支那」や「暴支膺懲(ボウシヨウチョウ)」があった。戦時中の中国人に対する蔑称としては「チナ」「ポコペン」「チャンコロ」などがあった。 中華民国が連合国の一員として第二次世界大戦の戦勝国になると、蔣介石は日本に対し、「今後は我が国を中華民国と呼び、略称は中国とするよう」主張した。1946年(昭和21年)6月13日公表(6月6日通達)の「支那の呼称を避けることに関する件」という外務次官通達が行われ、「中華民国の呼称に関する件」という外務省総務局長通達を公告した。 これ以後、外務次官の通達により、放送・出版物においては、中国のことを支那と呼称することを自粛することになった。その理由として、中華民国の代表者から公式・非公式に「支那」の字の使用をやめてほしいとの要求があったので、今後は理屈抜きにして、先方の嫌がる文字を使わないようにしたいとしている。 日本人が「支那」と呼んでいた事について、蔣介石は、対日戦の最中の対日言論集の中で「彼ら(日本人)は中国を支那と呼んでいる。この支那とはどういう意味であろうか。これは死にかかった人間の意である」と述べており、中華民国指導者層には「支那」には侮蔑の意があると受け取っている者もいた。 そのため、「中国」の表記が一般に使用されるようになり、日本語読みで「ちゅうごく」と呼ぶようになった。 当時大学にあった「支那哲学」といった教科名の変更が文部省から求められたほか、郵政省も国際郵便で旧「満洲国」地域は「中華民国東北」、「支那」「北支」「中支」「南支」と呼んでいた地域に「中華民国」と書いていなければ、郵便局では引き受けないと発表している。 また、当時の吉田茂首相が国会答弁で「支那」と呼称した事に対し、野党から批判を受けた事に対し、中国文学者として著名であった青木正児が「悪い名称ではなかったから、吉田茂首相が使うのは問題にしないでほしい」という事を、朝日新聞に寄稿したところ、当時経済貿易新聞社主幹であった劉勝光は「日清戦争以後の教育方針が侮中国的であり「支那」という文字を見ると日本の軍閥・帝国主義を想起する」として、中国にはない単語であり、日本人による著作以外には存在しないなどと批判した。 この点につき、加藤徹は「日本国政府が『支那共和国』という独自の呼称にこだわったのは(中略)1930年までだった。以後は、公文書のなかで『中華民国』という国名を使うようになった。既に第二次大戦中に、日本政府は、南京の中華民国政府(汪兆銘政権)の要請を受け、今後、段階的に『支那』という呼称をやめてゆくことを約束した。もし仮に、日本が第二次世界大戦で戦勝国となっても、『支那』は廃語となったろう」とする。
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