日清戦争以降とは? わかりやすく解説

日清戦争以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:05 UTC 版)

似島検疫所」の記事における「日清戦争以降」の解説

その後帰還兵検疫終了陸軍第5師団移管されるも検疫業務としては休止状態となった。そこへ1897年明治30年8月日本海軍移管され呉鎮守府所管となった日露戦争が始まると日清戦争時よりも更に傷病兵出たことから、1904年明治37年4月再び陸軍第5師団移管され、この際取り決めにより陸軍・海軍共にここで検疫を行うことになった施設充実始まり1905年明治38年1月東大谷通称第二検疫所」が設けられ当初からあった施設通称第一検疫所」と呼ばれるうになる当時陸軍および海軍資料における正式名称は「似島検疫所第一消毒所」「似島検疫所第二消毒所」。検疫人数一日あたり8,000人を想定して整備された。この戦争から日本人だけでなく俘虜捕虜)も検疫している。また第一検疫所にあった避病院閉鎖され広島衛病院(のち広島陸軍病院)で対応することになった1906年明治39年)に陸軍運輸部管轄となった1910年明治43年第一検疫所大部分海軍移管、つまり第一海軍第二陸軍管理することになり、第一は「呉海軍病院似島消毒所」として運用されることになったその後海軍消毒所(第一検疫所)は老朽化進み1923年大正12年海軍消毒所は三ツ子島(呉海軍病院三ツ子島消毒所)に移設され、海軍消毒所つまり旧第一検疫所倉庫として用いられるようになった1940年昭和15年)には第二検疫所南側軍馬用の「馬匹検疫所」が設置される。 以下に、昭和初期までの検疫実績を示す(広島市調べ)。なお日中戦争でも検疫が行われているが、記録不明。 期間船舶数(隻)人数(人)日清戦争 1895年6月1日1896年1月11日 441 96,168 日露戦争 1904年1月1日1906年6月14日 1,753 663,443 第一次世界大戦 1914年12月2日1915年1月1日 95 45,564 シベリア出兵 1918年11月10日1922年10月29日 296 152,188 第一次山東出兵 1927年9月 - 約7,000 第二次山東出兵 1928年7月19日1929年5月13日 44 27,947 なお海軍のものであった旧第1検疫所、つまり後の倉庫群太平洋戦争末期には陸軍施設となっている(下記参照)がまた陸軍移管された時期不明例え南側陸軍兵器支廠似島弾薬庫となるが、発端当時市内東新開町あった陸軍兵器支廠1921年大正10年8月8日爆発事故起こしたためここ似島移したのであるが、移転年度は不明である。

※この「日清戦争以降」の解説は、「似島検疫所」の解説の一部です。
「日清戦争以降」を含む「似島検疫所」の記事については、「似島検疫所」の概要を参照ください。

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