日清戦争・露館播遷
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「カール・イバノビッチ・ヴェーバー」の記事における「日清戦争・露館播遷」の解説
「日清戦争」および「露館播遷」も参照 ロシア政府が彼を別の任地に差し向けようとしたとき、高宗はロシア皇帝ニコライ2世へ抗議文を書き(1895年7月2日)、その中で高宗はヴェーバーの賢明さを賞賛しつつ、より長く朝鮮に留まることを認めるよう求めた。高宗の要請は認められ、ウェーバーの代員となるはずであったアレクセイ・シュペイエル(英語: Alexei Nikolaevich Speyer、ロシア語: Алексей Николаевич Шпейер)が、代わりに東京の駐日ロシア大使に配属された。 1895年10月の閔妃暗殺(乙未事変)の後、ヴェーバーは個人的に貞洞(現在のソウル特別市中区)のロシア公使館の建物を避難所として高宗に提供し、高宗は1896年2月から1897年2月までそこに住んだ(露館播遷)。この時期は、朝鮮に対するロシアの影響の高さが特徴付けられる。ヴェーバーは李完用、李範晋と李允用(朝鮮語版)の率いる「親露派」による新内閣を指名するように、高宗に説得することができた。
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