日清戦争出征と小倉「左遷」とは? わかりやすく解説

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日清戦争出征と小倉「左遷」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:13 UTC 版)

森鷗外」の記事における「日清戦争出征と小倉「左遷」」の解説

1894年明治27年)夏、日清戦争勃発により、8月29日東京離れ9月2日広島宇品港発った翌年下関条約調印後5月近衛師団付き従軍記者正岡子規帰国挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外訪ねた清との戦争終わったものの、鷗外日本割譲された台湾での勤務命じられており(朝鮮勤務小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日宇品港着き(心配する家族代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督樺山資紀とともに台湾向かった。4か月ほどの台湾勤務終え10月4日帰京。 翌1896年明治29年1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴斎藤緑雨と共に『卍』を創刊し合評三人冗語」を載せ当時評壇先頭立った1902年廃刊)。 その頃より、評論的啓蒙活動戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。1898年明治31年7月9日付『万朝報』の連載弊風一斑 蓄妾実例」の中で、児玉せきとの交情あばかれた。 1899年明治32年6月軍医監(少将相当)に昇進し東京東部)、大阪中部とともに都督部置かれていた小倉西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された(1899年6月19日-1902年3月26日)。19世紀末から新世紀初頭過ごした小倉時代には、歴史観近代観にかかわる一連の随筆など書かれた。 またドイツ留学中田村怡与造講じていた難解なクラウゼヴィッツ戦争論』について、師団将校たちに講義をするとともに師団長井上光などの依頼翻訳始めたその内資料は、他の部隊求めたという。 小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟森潤三郎記述したように、その頃鷗外は、社会周縁ないし底辺生きる人々への親和慈しみ眼差し獲得していた。 私生活でも、徴兵検査視察などで各地歴史的な文物文化事蹟出会ったことを通し、特に後年史伝につながる掃苔(探墓)の趣味得た新たな趣味得ただけではなく1900年明治33年1月先妻1889年結婚して翌年離婚であった赤松登志子結核により再婚先で死亡したのち、母の勧めるまま1902年明治35年1月18歳年下荒木志げと見合い結婚をした(41歳23歳再婚同士)。さらに、随筆二人の友』に登場する友人得た1人仏教曹洞宗僧侶玉水俊虠(通称安国寺」)で、もう1人同郷俊才福間博である。2人鷗外東京転勤とともに上京し鷗外自宅近く住み交際続けた

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「日清戦争出征と小倉「左遷」」を含む「森鷗外」の記事については、「森鷗外」の概要を参照ください。

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