日清戦争出征と小倉「左遷」
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「森鷗外」の記事における「日清戦争出征と小倉「左遷」」の解説
1894年(明治27年)夏、日清戦争の勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団付き従軍記者の正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。 清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀らとともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。 翌1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴や斎藤緑雨と共に『卍』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。 その頃より、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」の中で、児玉せきとの交情をあばかれた。 1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)、大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された(1899年6月19日-1902年3月26日)。19世紀末から新世紀の初頭を過ごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。 またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なクラウゼヴィッツ『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、師団長井上光などの依頼で翻訳を始めた。その内部資料は、他の部隊も求めたという。 小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、その頃の鷗外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた。 私生活でも、徴兵検査の視察などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟と出会ったことを通し、特に後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た。 新たな趣味を得ただけではなく、1900年(明治33年)1月に先妻(1889年に結婚して翌年離婚)であった赤松登志子が結核により再婚先で死亡したのち、母の勧めるまま1902年(明治35年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。さらに、随筆『二人の友』に登場する友人も得た。1人は仏教曹洞宗の僧侶玉水俊虠(通称「安国寺」)で、もう1人は同郷の俊才福間博である。2人は鷗外の東京転勤とともに上京し、鷗外の自宅近くに住み、交際を続けた。
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