清との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 08:34 UTC 版)
詳細は「清・ジュンガル戦争」を参照 1688年、ガルダン・ハーンは東モンゴリア(外モンゴル)のハルハ部に侵攻を開始する。ハルハ部の内紛に乗じてガルダンの弟を殺したハルハ左翼部のトシェート・ハーンを討つべく、モンゴル高原に侵攻した。ガルダンは迎え撃つトシェート・ハーンを破り、仏教寺院エルデニ・ジョーと左翼のチェチェン・ハーンを攻撃、その地を略奪した。トシェート・ハーンと弟のジェブツンダンバ・ホトクト1世は南の内モンゴルへ逃れ、清の康熙帝に庇護を求めた。ガルダンは2人の引き渡しを要求したが、清が応じなかったため、遂に清と衝突することとなった。 ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、北京北方300キロのウラーン・ブトン(ウラン・ブトン、ウランプトゥン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する(ウラーン・ブトンの戦い)。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していたが決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。 1693年にはクムルのダルハン・ベク、アブド・アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近した。 またハルハ部のトシェート・ハーンらが康熙帝に臣従を誓ったため、モンゴル族すべてが清の支配下に入ることとなり、ハルハ部の故地を奪還するという大義名分を得た康熙帝は1696年、ジュンガル親征を開始し、ガルダンをジョーン・モド(チャオモード、昭莫多)で破った(ジョーン・モドの戦い(英語版))。敗走したガルダンは1697年4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した。ガルダンの息子タンチラはクムルに亡命したがアブド・アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年クムル地区は清の版図となった。
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