清での活動
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1887年(明治20年)10月19日長崎を出発して25日上海に到着、漢口楽善堂荒尾精と会い、20日漢口に入って楽善堂員に合流、商務の傍ら語学を学び、弁髪を蓄えた。 1888年(明治21年)ロシア帝国のシベリア鉄道計画に対し危機感を覚えた楽善堂では、軍事知識のある敬一を新疆に派遣し、イリ将軍劉錦棠の幕僚となってロシアの南下を阻止することを決めた。6月18日北御門松二郎、河原角次郎を伴い、ロシア軍の進入が想定されるイリ路、アクス路、タルバガタイ路、カシュガル路の偵察、回族、チベット族等の状態、清の軍事、産業政策の視察、楽善堂幹部支部の設立準備等を目的として新疆に向け出発したが、甘粛省蘭州府(中国語版)で先発の藤島武彦等と合流できず、10月29日漢口に帰還した。 1889年(明治22年)3月25日、中国人に扮して宋思斉と変名し、藤島武彦と再出発した。襄陽府(中国語版)、老河口、荊紫関、藍田、西安府(中国語版)、鳳翔府(中国語版)、秦州、鞏昌府(中国語版)、狄道州(中国語版)、蘭州、甘州、粛州、嘉峪関を経て玉門県から新疆に入り、ハミ、トルファン、ウルムチ、クルカラウス(中国語版)、イリ、タルバガタイ、ウリヤスタイ、天山路、アクス、カシュガル、ヤルカンド、ホータンを巡り、崑崙山脈を越えてチベットを視察し、ダルツェンドから重慶に戻り、3年後に帰還する計画だった。 漢水、終南山を経て5月8日西安府に到着、6月9日出発して9月無事蘭州府に到着した。ここで武彦は引き返すことを決め、西方40中国里の村落で別れたが、これを最後として消息が途絶えた。
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