清との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)
半島の北の満洲(マンチュリア)に住んでいた女真人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「胡」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、小中華思想となって表れた。 その後、日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただ1人の天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。 秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された諡号は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、朝鮮王朝実録を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた。 事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間はたとえ犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった。 19世紀半ばのウエスタンインパクト以前の朝鮮にとって圧倒的に重要なのは中国である。それは、中国への外交使節の派遣回数を見れば歴然であり、燕京に派遣された燕行使は、冊封関係が終了するまで実に約500回に及び、それがウエスタンインパクト以後も派遣されている。朝鮮は中国を中心軸に置く歴史があまりに長く密度が濃いことから、ウエスタンインパクト以後、国際秩序の中心が欧米となり、中国が周辺に追いやられ、その対応に苦慮することになる。吉田光男は、「清との関係で言えば、初めは朝鮮は屈辱的な関係を強いられます。それまで明と安定的な関係を保っていましたが、南からの日本の攻撃による傷跡が癒えるまもなく、満洲族が興した清が北から攻めてきます。そして漢城陥落。国王は降伏の儀式を行わされ服従を誓わされます。それ以上に屈辱的だったことは、それまで野人と言って野蛮視していた満洲族の下に組み込まれたことでした。にも拘わらず、500回にも及ぶ使節を派遣する、しかも朝貢するというカタチで。心中は認めたくない、でもカタチとしては認める、そうしないと朝鮮の独立が保てない、といった苦衷を秘めながら。ところが100年も経つと、だいぶ認識が変わってきます。確かに支配者は変わったけれど、中国そのものは変わっていない。文化的には却って中華文明によって支配されている、というように。そして国内的にも、清朝から冊封されるということは正統な王朝であると国民が納得できる」と評している。 朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使に対して三跪九叩頭の礼を行い、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外に作られたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。
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