明治天皇による琉球藩王冊封とは? わかりやすく解説

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明治天皇による琉球藩王冊封

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「明治天皇による琉球藩王冊封」の解説

1869年版籍奉還が行われた。しかし琉球奉還自主申請することはなく、奉還命令からも除外されていた。結果として琉球版籍奉還対象外という扱いとなった1871年には廃藩置県断行され、琉球暫定的に鹿児島県管轄下に置かれた。このような中で問題となったのは清の冊封国であり、アメリカ諸外国との条約締結している琉球取り扱いであった明治政府内で琉球処遇について協議進められる中で浮かび上がってきたのが、明治天皇による琉球藩王冊封であったこれまで江戸幕府との間に結ばれてきた将軍琉球国王との君臣関係を、天皇尚泰琉球藩王冊封することによって、新たに天皇との君臣関係を定めるものであった。これは東アジア伝統である冊封利用しながら、明治政府として琉球処遇整理していく端緒となった1872年6月琉球鹿児島県側から王政復古祝賀する使節派遣指示された。7月には鹿児島県から正式な使者訪れ王族を代表とする使節派遣改め命じた使節9月東京到着し9月14日明治天皇から尚泰琉球藩王冊封された。冊封後、琉球所轄鹿児島県から外務省へ移管された。 明治天皇による尚泰冊封後、すぐに琉球を巡る体制大きな変化があったわけではない当初琉球管轄する外務省琉球が清と従来の関係を維持することを認めていて、外務卿副島種臣1873年接貢船派遣従来通り認めるなど、進貢船接貢船派遣これまで通り継続されていた。進貢、接貢時に福州琉球館行われる貿易も、薩摩藩から鹿児島県変わったものの、江戸時代同様に鹿児島側から統制される形態のまま続けられた。 しかし征韓論による政変後、明治政府事実上トップとなった大久保利通東アジア国家間存在した伝統的秩序解体する政策押し進めその中で琉球清との関係断絶、そして琉球処分へと導いていく。

※この「明治天皇による琉球藩王冊封」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「明治天皇による琉球藩王冊封」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。

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