明治天皇による琉球藩王冊封
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「明治天皇による琉球藩王冊封」の解説
1869年、版籍奉還が行われた。しかし琉球は奉還を自主申請することはなく、奉還命令からも除外されていた。結果として琉球は版籍奉還の対象外という扱いとなった。1871年には廃藩置県が断行され、琉球は暫定的に鹿児島県の管轄下に置かれた。このような中で問題となったのは清の冊封国であり、アメリカ等諸外国との条約も締結している琉球の取り扱いであった。 明治政府内で琉球の処遇について協議が進められる中で浮かび上がってきたのが、明治天皇による琉球藩王冊封であった。これまで江戸幕府との間に結ばれてきた将軍と琉球国王との君臣関係を、天皇が尚泰を琉球藩王に冊封することによって、新たに天皇との君臣関係を定めるものであった。これは東アジアの伝統である冊封を利用しながら、明治政府として琉球の処遇を整理していく端緒となった。 1872年6月、琉球は鹿児島県側から王政復古を祝賀する使節の派遣を指示された。7月には鹿児島県から正式な使者が訪れ、王族を代表とする使節派遣を改めて命じた。使節は9月に東京に到着し、9月14日に明治天皇から尚泰は琉球藩王に冊封された。冊封後、琉球の所轄は鹿児島県から外務省へ移管された。 明治天皇による尚泰の冊封後、すぐに琉球を巡る体制に大きな変化があったわけではない。当初、琉球を管轄する外務省は琉球が清と従来の関係を維持することを認めていて、外務卿の副島種臣も1873年の接貢船の派遣を従来通り認めるなど、進貢船、接貢船の派遣はこれまで通り継続されていた。進貢、接貢時に福州の琉球館で行われる貿易も、薩摩藩から鹿児島県に変わったものの、江戸時代と同様に鹿児島側から統制される形態のまま続けられた。 しかし征韓論による政変後、明治政府の事実上トップとなった大久保利通は東アジアの国家間に存在した伝統的秩序を解体する政策を押し進め、その中で琉球と清との関係の断絶、そして琉球処分へと導いていく。
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