明治天皇と齋藤勘七と玉川橋のエピソードとは? わかりやすく解説

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明治天皇と齋藤勘七と玉川橋のエピソード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 17:25 UTC 版)

玉川遠州流」の記事における「明治天皇と齋藤勘七と玉川橋のエピソード」の解説

明治天皇は、1881年明治14年9月19日神宮寺花館の間に流れ玉川仮橋渡って花館村入った。この仮橋御巡幸のために村民資金出し合ってけたものである。玉川それまで渡し船で、急流なために架橋したことは一度もなく、一度増水するや、激流護岸田畑押し流すおそろし暴れ川であった花館村民は、明治天皇渡し船渡河させるよりけて、周囲景色眺めながら渡ってもらいたいということになった齋藤忠定の孫で、齋藤忠紀の次男玉川遠州流嗜む花館村村会議長齋藤勘七をはじめ、有力者果たし架橋することが可能かの協議重ねた結果当時の金で150円を出し仮橋架けることに決めたが、誠に破天荒の大事業であるといえた。当時玉川二筋分かれて流れ大渡船場玉川本流)と小渡船場支流大戸川)との二つ船場あったから、仮橋二つ必要であった。この竣工直後大雨があり増水したため、村民大雨増水仮橋流出するものとあきらめていた。しかし、引いたところ、には少しの損失もなく無事であった村民安堵し、その喜び大きかった明治天皇がこの渡ったとき、雄物川玉川合流点神宮寺岳が屹立きつりつ)、しばらく風輦(ほうれん)を止めてこの絶景眺め玉川流れ清音聴いたという。花館村民の願いかなって玉川仮橋は無事その大役果たしたわけである。この仮橋は、1885年明治18年)の大洪水半分流出し一時渡し船戻ってしまった。そのため、1888年明治21年)に県による本格的な玉川橋】(木橋県内最長の約664m)が完成した1889年明治22年)、齋藤勘七(忠篤)は県内長い木橋竣工記念し、「玉川橋夕立」と題し「ゆふ立のあしとく走る かたへより 日はてり渡る玉川 忠篤」の歌を残している。玉川は、地元の人にとって真に大切な川の名称である。

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