明治天皇と齋藤勘七と玉川橋のエピソード
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「玉川遠州流」の記事における「明治天皇と齋藤勘七と玉川橋のエピソード」の解説
明治天皇は、1881年(明治14年)9月19日、神宮寺~花館の間に流れる玉川の仮橋を渡って花館村に入った。この仮橋は御巡幸のために村民が資金を出し合って架けたものである。玉川はそれまでは渡し船で、急流なために架橋したことは一度もなく、一度増水するや、激流は護岸や田畑を押し流すおそろしい暴れ川であった。花館村民は、明治天皇を渡し船で渡河させるより橋を架けて、周囲の景色を眺めながら渡ってもらいたいということになった。齋藤忠定の孫で、齋藤忠紀の次男で玉川遠州流を嗜む花館村村会議長の齋藤勘七をはじめ、有力者が果たして架橋することが可能かの協議を重ねた結果、当時の金で150円を出し、仮橋を架けることに決めたが、誠に破天荒の大事業であるといえた。当時、玉川は二筋に分かれて流れ、大渡し船場(玉川本流)と小渡し船場(支流大戸川)との二つに船場があったから、仮橋は二つ必要であった。この橋の竣工直後に大雨があり増水したため、村民は大雨、増水で仮橋は流出するものとあきらめていた。しかし、水が引いたところ、橋には少しの損失もなく無事であった。村民は安堵し、その喜びも大きかった。明治天皇がこの橋を渡ったとき、雄物川と玉川の合流点に神宮寺岳が屹立(きつりつ)、しばらく風輦(ほうれん)を止めてこの絶景を眺め、玉川の流れの清音を聴いたという。花館村民の願いがかなって、玉川の仮橋は無事その大役を果たしたわけである。この仮橋は、1885年(明治18年)の大洪水で半分を流出し、一時、渡し船に戻ってしまった。そのため、1888年(明治21年)に県による本格的な【玉川橋】(木橋、県内最長の約664m)が完成した。1889年(明治22年)、齋藤勘七(忠篤)は県内一長い木橋の竣工を記念し、「玉川橋夕立」と題し「ゆふ立のあしとく走る かたへより 日はてり渡る玉川の橋 忠篤」の歌を残している。玉川は、地元の人にとって真に大切な川の名称である。
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