明治天皇と有栖川宮家のエピソード
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「玉川遠州流」の記事における「明治天皇と有栖川宮家のエピソード」の解説
北海道から青森県を通過し、秋田県に明治天皇が巡幸したのが1881年(明治14年)9月11日で、当日は東大館(現 大館市)に宿泊している。翌12日は二ツ井村(現 能代市)、13日は能代、14日は一日市村(現 八郎潟町)、15日は土崎港、16日と17日は秋田、18日は仙北郡境村(現 大仙市)、19日は刈和野~神宮寺~花館を通って、大曲の9代小西伝助が3,300円の自費で新築した邸内に設けられた大曲御休所で1時間ほど休息をとり、角間川村の御泊行在所(あんざいしょ)の本郷吉右衛門宅に向かった。 9月19日~20日の御巡幸の道筋は、一般には羽州街道の刈和野~大曲~六郷~金沢~横手に至るとされていたが、先発官と県令から、刈和野~大曲~角間川~横手に至ると通知された。驚いた六郷町民は極度に興奮し、道筋の変更を県庁に強願したが、却下された。それにより騒ぎは大きくなり、遂に松方正義内務卿に「輦路(れんろ)得失献言書」を提出。相談を受けた、明治天皇の書道と歌道の師で玉川遠州流を嗜む有栖川宮8代幟仁(たかひと)親王は、天皇に供奉(ぐぶ、おとも)する第1王子の有栖川宮9代熾仁(たるひと)親王に進言。その結果、天皇の輦路(れんろ、風輦(ほうれん)の通路)は大曲~角間川~六郷~金沢~横手の通輦(つうれん)に変更され、角間川~横手を結ぶ角間川新道は当流を嗜む陸軍大将で左大臣を兼務する有栖川宮9代熾仁(たるひと)親王の御代巡となった。風輦(ほうれん)は、天皇の行幸用の乗り物の称である。 9月20日の六郷御小休所は、斎藤喜代輔宅地内の諏訪神社境内に設けられ、仁手古(ニテコ)清水を御膳水とする茶席が用意された。茶席の担当は、斎藤喜代輔宮司と、親戚の当流監察員 冨樫森月(38歳、大曲)で、明治天皇と武官200名に呈茶されたと伝わる。茶席には、特産のブドウや六郷名物のシンコ餅なども差し出された。仁手古(ニテコ)の語源は、アイヌ語の「ニタイ(森林)」と「コツ(水たまり)」を合わせた「ニタイコツ」から「ニテコ」に変化したものと伝わる。
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