明治天皇の批准と李鴻章の帰国
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「下関条約」の記事における「明治天皇の批准と李鴻章の帰国」の解説
1895年4月20日、明治天皇は講和条約を批准した。条約の批准は、本来、枢密院に諮詢したのち、天皇が裁可することが原則となっていたが、このたびは諮詢の手続きが省略され、すぐに裁可となった。徳大寺侍従長がこれに先立って19日に広島市内の黒田枢密院議長を訪問しており、19日と20日の両日、天皇は伊藤と協議を重ねているところから、おそらくは諮詢手続きの省略ないし延引の件に関してのことと推測される。4月21日、天皇は「平和克復ニ関スル詔書」を発し、戦後計略について説明し、そのなかで日清善隣友好が唱えられた。この日、日本政府は内閣書記官長の伊東巳代治を全権弁理大臣に任命し、5月8日に清国の外交都市、芝罘(現、山東省煙台市)で行われる予定の批准書交換を委任し、伊東を同地に向け、出発させた。こうした一連の手早さは、列強による干渉の隙を与えないためのものであったが、陸奥宗光が芝罘に向かう伊東巳代治にあたえた訓令も、柔軟な対応を求めるもので、とにかく条約を成立させようという強い意志がそこにははたらいていたのであった。 一方、李鴻章一行は4月20日に天津に着き、伍廷芳とアメリカ人外交顧問のジョン・フォスターが北京に赴いて総理衙門に条約書を届けた。フォスターはアメリカ合衆国国務長官を経験した大物政治家で全権団顧問として下関にも同行した人物であり、おそらくは、ヨーロッパ諸国の干渉の動きをつかんでいたと思われる。日本側はフォスターを通じて干渉の動向が清国側に伝えられるのを怖れたが、フォスターはアメリカの調停で始まった講和会議を決裂させたくなかったため、李鴻章にはこのことを伏せていたとみられる。
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