明治天皇の詠歌
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明治天皇が初めて歌を詠んだのは数え6歳のときで、安政4年(1857)11月の次の歌であったとされる。 月見れば 雁が飛んでゐる 水の中にも映るなりけり 明治天皇が詠歌に熱心になるのは、ひとえに父の孝明天皇の指導によるものだという。明治天皇は数え7~8歳のころから孝明天皇に会うたびにお題を5つもらい、その題で歌を詠んで孝明天皇に見せてから菓子をもらうことを例としていた。時には孝明天皇みずから添削することもあった。孝明天皇は例えば次のように添削したという。 (添削前)曙に 雁帰りてぞ 春の日ぞ 声を聞きてぞ 長閑なりけり (添削後)春の日に 空曙に 雁帰へる 声ぞ聞こゆる 長閑にぞ鳴く このように明治天皇は幼い時から孝明天皇の直接指導を受けて和歌を学習した。また広橋静子ら女官を相手に和歌の稽古をしたという。 1867年1月30日(慶応2年12月25日)孝明天皇が崩御する。孝明天皇は臨終の間際に我が子(明治天皇)を側近くに呼んで「天皇の位に即くとも歌詠む道は夢な忘れ給ひそ」と遺訓する。そういうことで、親孝行な明治天皇は「歌道を重んずるは亡き先帝の御霊に仕ふるなり」と言って、どんなに多忙の時でも歌を詠んだという。 1869年(明治2年)旧暦正月、第1回の歌御会が京都で行われる。以後ほぼ毎年継続して開催される。 同年、三条西季知が歌道御用により時々参朝すべきこととされる。明治天皇の御製は三条西季知が一人で拝見する。 1872年(明治5年)この年の歌御会始で披露された御製が報道される。題は「風光日々新」、御製は「日にそひて 景色和らぐ春の風 四方の草木にいよよ吹かせん」である。報道はこれを「遠を懐け民を撫するの聖旨」と解釈する。 1875年(明治8年)高崎正風が侍従番長として宮中に入る。高崎はかつて薩摩藩士として八月十八日の政変を謀ったこともある志士であったが、歌人としても有名であった。明治天皇は初対面の高崎正風に「高崎は歌を詠むという事を兼ねて聞いておった」と言って題を与えて歌を詠ませる。その後も毎日のように題を与えて歌を詠ませる。 1876年(明治9年)高崎正風が御歌係に推薦される。三条西季知が明治天皇に推薦したという。ただし御製はこの後も三条西が一人で拝見しており、高崎は三条西から句調や語格について質問を受ける程度に止まる。 1877年(明治10年)高崎正風が初めて御製を直接拝見する。それは西南戦争終結後、天皇が海路で東京に帰る途上のことである。船が遠州灘に差し掛かったとき天皇は高崎に三首の御製を示し「どれが一番よろしいか」と下問する。高崎は三首のうち中の歌「東(あずま)にと急ぐ船路の波の上に嬉しく見ゆる富士の芝山」が優れていると答える。天皇は「他の歌は、どういうわけでいけないのか」と聞く。高崎は、他の歌が悪いわけではありません、中の歌がとりわけ優れているように思われます、と答える。天皇は「そんなら、その歌のどういう処がいいというのか」と聞く。高崎は「すべて歌は人の心を種として読むものであるから、自分の感じたところをそのまま言い表すのが純情で、それに長い旅行をして今帰るという時は、貴賤・男女を問わず、自然に早く帰りたいという冀望があるものでございます。この中の御製には、その御心持が大変よく表れております。作ったことでなく、よく心情をお歌いあそばされてあるから、真に結構でございます」と答える。天皇は「そうか」と言い、歌道についての質問を矢のように続ける。高崎が答えると天皇はますます興に入り、ついには手帳を取り出して御製を書いて高崎に批評させる。そうこうするうちに天皇の示した御製は30首以上にのぼり、船は遠州灘をとうに過ぎて横浜に着く。東京に戻った翌日、天皇は高崎を召し出し、今後御製を拝見するようにとの命を伝える。高崎は再三辞退するが天皇は許さない。高崎は御製拝見を引き受ける条件として、以下の3つの条件を申し出る。 詠歌を嗜好し過ぎて大切な国政を疎んじないこと。 高崎は未熟であるが引き受けた以上は厳しい師でありたいので不敬・不遜なことも言上する。この点についてあらかじめ勅許すること。 他日適任者を召し出して高崎に代えること。三条西季知にはこれまでどおり拝見を仰せ付けること。 以上の条件について天皇が「それはもう三か条ともに委細承知したから宜しい」と答えたので、高崎は御製拝見を引き受ける。こういう条件で引き受けたので、高崎は御製に批評点をつけるにあたっても、心にもない善い点をつけることがない。天皇は性格が強気で負けず嫌いであるから、高崎に低い点をつられると、折り返してまた同じ題で詠んで高崎に下す。それに秀歌がなければ高崎は遠慮なく低い点をつける。天皇は倍の数を詠んでまた高崎に下す、というように、天皇と高崎の根気比べの様相になることも少なくなかったという。 高崎正風が御製拝見を始めた頃の話である。当時女流歌人の第一人者と言われた女官の税所敦子は、あるとき高崎に向かって、高崎の添削が余りに厳し過ぎるので天皇が屈託のあまり歌道や身体に異常を起こしては畏れ多いと苦言した。高崎は顔を正して、だからこそ先に3か条の約束をしたのである、添削が厳格であっても天皇の御稜威を損なうはずがない、天皇は歌道の真義に通暁しているから歌道を捨てることはありえない等と弁じた。数か月後、天皇は女官たちを呼び集め、高崎が最上点を付けた御製3首を示し、歌はこう詠むのだぞ、と言って非常に満足の様子であった。天皇と高崎の間の相互信頼の深さに女官らは感動したという。 御製拝見の手順については、当初は天皇直筆の詠草をそのまま高崎正風に下げ渡していたが、高崎はこれに直接加筆するは畏れ多いので今後は女官に代筆を仰せ付けいただきたいと願い出た。女官の代筆を勅封のうえ高崎に下げ渡し高崎はこれを拝見して、一通の写しを留めて、また元通りに厳封して天皇に返上する。いかなる大官でも中を窺い知ることはできない。 1888年(明治21年)歌道御用掛が発展して御歌所が置かれる。高崎正風が御歌所長を仰せ付けられる。御歌所が置かれたのは歌道を奨励する明治天皇の思し召しによるものだという。 高崎正風が御歌所長になった頃(明治20年頃)、ある雑誌が創刊号に御製1首を載せる。これは高崎所長が漏洩したものであり、天皇はこれに怒って「こは世に公にすべきものにてはあらざるを」と高崎を責めたが、高崎が「必ずしも深き罪とは存じ候わず」と開き直ると、天皇はそれ以上何も言わなくなったという。 1894年(明治27年)日清戦争が始まる。日清戦争の頃まで、天皇の詠歌の力量は後年に比べて劣っていたといわれる。未だ天皇は詠歌に堪能とは言い難く、むしろ皇后の御歌のほうが高い点を取ることが多かったという。 1897年(明治30年)前後、御製が新聞に掲載される。天皇は高崎正風を呼び、平伏する高崎に向かって気色ばんで、朕の和歌を知る者はお前の他にいないのにそれが新聞紙に載ったのはどういうわけか、と問い詰める。高崎は、自分の罪は万死に当たると答え、次のように釈明する。自分は御製を拝してその人民を憐れむ仁慈に感涙しており、御製ほど深く脳裏に刻まれているものはないので、陛下の乾徳を人と話している時に思わず御製を漏洩してしまったのであり、図らずも天皇を悩ませることになったのは恐懼に堪えない、と。天皇はただ「そうか」と言うだけでなので、高崎は恐れ入って退出する。一説には、ある御製を高崎が岩倉公に伝えたところ、それが一般にも知れ渡り、このことを知った天皇に「許さぬうちは決して漏らしてはならぬ」と咎められ、いわば勅封を受けることになったという。 1904年(明治37年)に始まる日露戦争を境として天皇の詠歌は長足の進歩を遂げたといわれる。そして日露戦争の頃から御製が新聞に載ることが急に多くなる。これは高崎正風が漏洩したのである。 高崎正風による御製漏洩のいきさつは、御歌所寄人の千葉胤明によれば次のようであったという。日露戦争が始まると御製の数が多くなり毎日40首を超えるようになる。千葉は御歌所で御製を書き写していて思うに、天皇は民の戦時の労苦を憐れみ、戦場ではこうもあろう、寂しい留守の家々はこうもあろう、雨や風や暑さや寒さをどう過ごすであろうと、ひたすら思い悩み、その思いを御製にしたためている。これを出征将士も一般臣民も拝誦できるようにするならば士気振興にも民心緊張にも非常に効果がある。こう思った千葉は高崎に働きかける。高崎は、かつての漏洩事件に触れ、今は勅封を受けているようなものだから自分の口から天皇に願い出ることは難しいと話す。そこで千葉は、高崎の親戚で親友でもある軍令部長伊東祐亨らに働きかける。伊東は、天皇に陪食したおりに天皇の機嫌が特に良いように見えたので、元老の伊藤博文や山県有朋とともに御製の発表を天皇に願うが、天皇は「こんなつまらぬ歌をどうするのか」と言うだけで取り合わない。千葉は再び高崎に相談する。高崎が一晩熟慮したうえで言うことには、自分は既に維新当時、天皇に命を捧げた者であり、今まで生きながらえたことが不思議なぐらいであるから、この白髪の首を斬られることを覚悟すればいいだけである。高崎はこう言って、御製のうち加点の百首ぐらいを3通づつ筆写することを千葉らに命じる。高崎は各通を宮内大臣田中光顕と侍従長徳大寺実則と侍従職幹事岩倉具定に差し出して話すに、違勅の罪は自分が被るから貴方に迷惑をかけないが、ただ高崎がこういうことをしていると御承知おき願いたいと申し伝える。以後、高崎は報道機関に乞われるままに御製を授ける。高崎が漏洩した御製の数は5~6百首に及ぶ。このときは何も御咎めがなかったという。 日露戦争当時築地に住んでいたアーサー・ロイドは明治天皇の御製を新聞で見て、感激のあまり高崎に頼んで新たな御製を漏洩してもらい、それを英語に訳して各国の元首に贈呈したという。その中に「四方の海 みな同胞と思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ」の御製があった。米国大統領セルドア・ルーズベルトはこの御製を見て、明治天皇が平和を熱望する博愛な思し召しに感激し、日露間を調停することを決心したと伝えられる。 明治天皇は御製が世間に漏れるのを好まない。徳大寺侍従長の話によると、しばしば御製が新聞に載ることを苦々しく思った天皇は、あるとき高崎を召して軽く咎めた。高崎は咎められていることに気づかずに「御製を世間に漏らすということは世道人心にために非常によいことと存じまして致したことでございます。もしこれについて御咎めあらば、正風は切腹して申し訳を致します」と言上し、調子にのって手で腹を切る真似をした。そばで見ていた徳大寺侍従長は笑いそうになったが天皇の前であるから笑うに笑えず大層困った。明治天皇も可笑しく思ったのか重ねて咎めることはなかったいう。 1910年(明治43年)大隈重信が『国民読本』を公刊する。当時大隈は政界を引退し早稲田大学総長をつとめていた。『国民読本』は明治天皇の御製を「編成の根本」とし、「大日本の国体と国民性を闡明し、現時の法治国における国家組織の綱領と、国民の責任とを概説し、また忠君愛国の新意義を指示し、兼て日本国民の理想を顕明」したものであり、義務教育を終えた青年男女の補習読本として、また貴賤老若男女を問わず一般国民に本分と価値を確信させるものとして執筆された。同書は国民教育の教材として体系的に御製を用いた最初の例といえる。大隈は高崎正風に依頼して天皇御製と皇后御歌を各1首を筆写してもらい同書の巻頭にこれを掲げ、また同書中に御製・御歌計61首を記載する。そして大隈は同書を天皇にを献上する。天皇はそれに御製が多く載っているのを見て、直ちに高崎正風を呼び「そのほうのせいであろう」と詰責する。高崎は「御製のまことに尊くめでたいこと、国民をして常に拝誦せしむれば、風俗を正し道徳を進むるに大効あるべきを信じたること」、そして「ただ国家の為に謀りたること」であるので如何なる咎を受けようとも遺憾がないと奏したところ、何の沙汰もなく済む。 明治の末期、岩倉具定が宮内大臣であった当時(1910~1911年)、岩倉が拝謁に上がると明治天皇はさっさっと何かを側に置く。岩倉がよく見るとそれは奏上袋に書いた御製の下書きであった。これにより明治天皇は政務の合間に常に歌の事を考えていたことが分かる。明治天皇の詠草は、大方は税所敦子、後に小池道子が浄書する。浄書は毎日20~30首ぐらいづつ奉書の4つ折りに書き写したとも、あるいは毎日40首以上、奉書を2つ折りにして1枚に4首づつ書き写したともいう。 御紋章附きの黒塗りの箱に収めて毎日御歌所に下げ渡す。御歌所所長はそれに朱を入れて天皇に差し上げる。阪正臣ら御歌所職員は御製を写し取り御歌所の控えとし、これを金烏と称して纏めて取っておく。
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