明治天皇の詠歌とは? わかりやすく解説

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明治天皇の詠歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:41 UTC 版)

明治天皇御集」の記事における「明治天皇の詠歌」の解説

明治天皇初めて歌を詠んだのは数え6歳のときで、安政4年(1857)11月次のであったとされる月見れば 雁が飛んでゐる 水の中にも映るなりけり 明治天皇詠歌熱心になるのは、ひとえに父の孝明天皇指導よるものだという。明治天皇数え7~8歳ころから孝明天皇に会うたびにお題5つもらい、その題で歌を詠んで孝明天皇見せてから菓子をもらうことを例としていた。時には孝明天皇みずから添削することもあった。孝明天皇例え次のように添削したという。 (添削前)曙に 雁帰りてぞ 春の日声を聞きてぞ 長閑なりけり (添削後)春の日に 空曙に 雁帰へる 声ぞ聞こゆ長閑にぞ鳴く このように明治天皇は幼い時から孝明天皇直接指導受けて和歌学習した。また広橋静子女官相手和歌稽古をしたという。 1867年1月30日慶応2年12月25日孝明天皇崩御する孝明天皇臨終間際我が子明治天皇)を側近くに呼んで天皇の位に即くとも歌詠む道は夢な忘れ給ひそ」と遺訓する。そういうことで、親孝行明治天皇は「歌道重んずる亡き先帝御霊仕ふるなり」と言ってどんなに多忙の時でも歌を詠んだという。 1869年明治2年旧暦正月第1回の歌御会が京都行われる以後ほぼ毎年継続して開催される同年三条西季知歌道御用により時々参朝すべきこととされる。明治天皇御製三条西季知一人拝見する1872年明治5年この年歌御会始披露され御製報道される。題は「風光日々新」、御製は「日にそひて 景色和らぐ春の風 四方草木にいよよ吹かせん」である。報道はこれを「遠を懐け民を撫する聖旨」と解釈する1875年明治8年高崎正風侍従番長として宮中に入る。高崎はかつて薩摩藩士として八月十八日の政変謀ったこともある志士であったが、歌人としても有名であった明治天皇初対面高崎正風に「高崎は歌を詠むという事兼ねて聞いておった」と言って題を与えて歌を詠ませるその後毎日のように題を与えて歌を詠ませる1876年明治9年高崎正風御歌係に推薦される三条西季知明治天皇推薦したという。ただし御製この後三条西一人拝見しており、高崎三条西から句調語格について質問を受ける程度止まる1877年明治10年高崎正風初め御製直接拝見する。それは西南戦争終結後天皇海路東京帰る途上のことである。船が遠州灘差し掛かったとき天皇高崎に三首の御製示し「どれが一番よろしいか」と下問する。高崎は三首のうち中の歌「東(あずま)にと急ぐ船路の波の上嬉しく見ゆ富士芝山」が優れている答える。天皇は「他の歌は、どういうわけでいけないのか」と聞く高崎は、他の歌が悪いわけではありません、中の歌がとりわけ優れているように思われます、と答える。天皇は「そんなら、その歌のどういう処がいいというのか」と聞く高崎は「すべて歌は人の心を種として読むものであるから、自分感じたところをそのまま言い表すのが純情で、それに長い旅行をして今帰るという時は、貴賤男女問わず自然に早く帰りたいという冀望があるものでございますこの中御製には、その御心持が大変よく表れております作ったことでなく、よく心情お歌あそばされてあるから、真に結構でございます」と答える。天皇は「そうか」と言い歌道についての質問矢のよう続ける。高崎答えると天皇はますます興に入りついには手帳取り出して御製書いて高崎批評させる。そうこうするうちに天皇示した御製30以上にのぼり、船は遠州灘をとうに過ぎて横浜に着く。東京戻った翌日天皇高崎召し出し今後御製拝見するようにとの命を伝える。高崎再三辞退する天皇許さない高崎御製拝見引き受け条件として、以下の3つの条件申し出る詠歌嗜好過ぎて大切な国政疎んじないこと。 高崎未熟であるが引き受けた以上は厳しい師でありたいので不敬不遜なことも言上する。この点についてあらかじめ勅許すること。 他日適任者召し出して高崎代えること。三条西季知にはこれまでどおり拝見仰せ付けること。 以上の条件について天皇が「それはもう三か条ともに委細承知したから宜しい」と答えたので、高崎御製拝見引き受ける。こういう条件引き受けたので、高崎御製批評点をつけるにあたっても、心にもない善い点をつけることがない天皇性格強気負けず嫌いであるから高崎に低い点をつられると、折り返してまた同じ題で詠んで高崎下す。それに秀歌なければ高崎遠慮なく低い点をつける。天皇は倍の数を詠んでまた高崎下す、というように、天皇高崎根気比べ様相になることも少なくなかったという。 高崎正風御製拝見始めた頃の話である。当時女流歌人第一人者と言われ女官税所敦子は、あるとき高崎向かって高崎添削余りに厳し過ぎるので天皇屈託のあまり歌道や身体に異常を起こして畏れ多い苦言した。高崎は顔を正してだからこそ先に3か条の約束をしたのである添削厳格であっても天皇御稜威損なうはずがない天皇歌道真義通暁しているから歌道捨てることはありえない等と弁じた。数か月後、天皇女官たち呼び集め高崎最上点を付けた御製3首を示し、歌はこう詠むのだぞ、と言って非常に満足の様子であった天皇高崎の間の相互信頼深さ女官らは感動したという。 御製拝見の手順については、当初天皇直筆詠草そのまま高崎正風下げ渡していたが、高崎はこれに直接加筆する畏れ多いので今後女官代筆仰せ付けいただきたい願い出た女官代筆勅封のうえ高崎下げ渡し高崎はこれを拝見して一通写し留めて、また元通り厳封して天皇返上するいかなる大官でも中を窺い知ることはできない1888年明治21年歌道御用掛が発展して御歌所置かれる高崎正風御歌所長を仰せ付けられる。御歌所置かれたのは歌道奨励する明治天皇思し召しよるものだという。 高崎正風御歌所になった頃(明治20年頃)、ある雑誌創刊号御製1首を載せる。これは高崎所長漏洩したものであり、天皇はこれに怒って「こは世に公にすべきものにてはあらざるを」と高崎責めたが、高崎が「必ずしも深き罪とは存じ候わず」と開き直ると、天皇それ以上何も言わなくなったという。 1894年明治27年日清戦争が始まる。日清戦争の頃まで天皇詠歌力量後年比べて劣っていたといわれる未だ天皇詠歌堪能とは言い難く、むしろ皇后御歌のほうが高い点を取ることが多かったという。 1897年明治30年前後御製新聞掲載される天皇高崎正風呼び平伏する高崎向かって気色ばんで、朕の和歌を知る者はお前の他にいないのにそれが新聞紙載ったのはどういうわけか、と問い詰める高崎は、自分の罪は万死に当たると答え次のように釈明する自分御製拝してその人民を憐れむ仁慈感涙しており、御製ほど深く脳裏刻まれているものはないので、陛下乾徳を人と話している時に思わず御製漏洩してしまったのであり、図らずも天皇悩ませることになったのは恐懼に堪えない、と。天皇はただ「そうか」と言うだけでなので、高崎恐れ入って退出する一説には、ある御製高崎岩倉公に伝えたところ、それが一般に知れ渡り、このことを知った天皇に「許さぬうちは決し漏らしてはならぬ」と咎められ、いわば勅封を受けることになったという。 1904年明治37年)に始まる日露戦争を境として天皇詠歌長足の進歩遂げたといわれる。そして日露戦争の頃から御製新聞載ることが急に多くなる。これは高崎正風漏洩したのである高崎正風による御製漏洩いきさつは、御歌所寄人千葉胤明によれば次のようであったという。日露戦争が始まると御製の数が多くなり毎日40首を超えるうになる千葉御歌所御製書き写していて思うに天皇は民の戦時労苦憐れみ戦場ではこうもあろう、寂し留守家々はこうもあろう、や風や暑さ寒さをどう過ごすであろうと、ひたすら思い悩み、その思い御製したためている。これを出征将士一般臣民拝誦できるようにするならば士気振興にも民心緊張にも非常に効果がある。こう思った千葉高崎働きかける高崎は、かつての漏洩事件触れ今は勅封受けているようなものだから自分の口から天皇願い出ることは難しいと話す。そこで千葉は、高崎親戚親友でもある軍令部長伊東祐亨らに働きかける伊東は、天皇陪食したおりに天皇機嫌が特に良いように見えたので、元老伊藤博文山県有朋とともに御製発表天皇に願うが、天皇は「こんなつまらぬ歌をどうするのか」と言うだけで取り合わない千葉は再び高崎相談する高崎一晩熟慮したうえで言うことには、自分は既に維新当時天皇命を捧げた者であり、今まで生きながらえたことが不思議なぐらいであるから、この白髪の首を斬られることを覚悟すればいいだけである。高崎はこう言って御製のうち加点百首ぐらいを3通づつ筆写することを千葉らに命じる。高崎各通宮内大臣田中光顕侍従長徳大寺実則侍従職幹事岩倉具定差し出して話すに、違勅の罪は自分が被るから貴方に迷惑をかけないが、ただ高崎こういうことをしていると御承知おき願いたい申し伝える以後高崎報道機関に乞われるままに御製授ける。高崎漏洩した御製の数は5~6百首に及ぶ。このときは何も御咎めがなかったという。 日露戦争当時築地住んでいたアーサー・ロイド明治天皇御製新聞見て感激のあまり高崎頼んで新たな御製漏洩してもらい、それを英語に訳して各国元首贈呈したという。その中に四方の海 みな同胞思ふ世に など波風立ち騒ぐらむ」の御製があった。米国大統領セルドア・ルーズベルトはこの御製見て明治天皇が平和を熱望する博愛思し召し感激し日露間を調停することを決心した伝えられる明治天皇御製世間漏れるのを好まない徳大寺侍従長の話によると、しばしば御製新聞載ることを苦々しく思った天皇は、あるとき高崎召して軽く咎めた高崎咎められていることに気づかずに「御製世間に漏らすということは世道人心にために非常によいことと存じまして致したことでございます。もしこれについて御咎めあらば、正風切腹し申し訳致します」と言上し、調子にのって手で腹を切る真似をした。そばで見ていた徳大寺侍従長笑いそうになった天皇の前であるから笑うに笑え大層困った明治天皇可笑しく思ったのか重ねて咎めることはなかったいう。 1910年明治43年大隈重信が『国民読本』を公刊する。当時大隈政界引退し早稲田大学総長つとめていた。『国民読本』は明治天皇御製を「編成根本」とし、「大日本国体国民性闡明し、現時法治国における国家組織綱領と、国民責任とを概説し、また忠君愛国の新意義指示し、兼て日本国民理想顕明したものであり、義務教育終えた青年男女補習読本として、また貴賤老若男女問わず一般国民本分価値確信させるものとして執筆された。同書国民教育教材として体系的に御製用いた最初の例といえる大隈高崎正風依頼して天皇御製皇后御歌を各1首を筆写してもらい同書巻頭にこれを掲げ、また同書中に御製御歌61首を記載する。そして大隈同書天皇にを献上する天皇はそれに御製多く載っているのを見て直ち高崎正風呼びそのほうのせいであろう」と詰責する。高崎は「御製まことに尊くめでたいこと国民をして常に拝誦しむれば風俗正し道徳を進むるに大効あるべき信じたること」、そして「ただ国家為に謀りたること」であるので如何なる咎を受けようとも遺憾がないと奏したところ、何の沙汰もなく済む。 明治末期岩倉具定宮内大臣であった当時(1910~1911年)、岩倉拝謁上がる明治天皇はさっさっと何かを側に置く。岩倉がよく見るとそれは奏上袋に書いた御製下書きであった。これにより明治天皇政務合間に常に歌の事を考えていたことが分かる明治天皇詠草は、大方は税所敦子、後に小池道子浄書する浄書毎日2030首ぐらいづつ奉書4つ折り書き写したとも、あるいは毎日40首以上、奉書2つ折りにして1枚に4首づつ書き写したともいう。 御紋章附き黒塗りの箱に収めて毎日御歌所下げ渡す御歌所所長はそれに朱を入れ天皇差し上げる。阪正臣御歌所職員御製写し取り御歌所控えとし、これを金烏称して纏めて取っておく

※この「明治天皇の詠歌」の解説は、「明治天皇御集」の解説の一部です。
「明治天皇の詠歌」を含む「明治天皇御集」の記事については、「明治天皇御集」の概要を参照ください。

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