清による東トルキスタンの併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)
「ヤクブ・ベクの乱」の記事における「清による東トルキスタンの併合」の解説
ジュンガルと清朝の東トルキスタンの覇権を巡る戦争は1690年から1759年まで続いた。1755年、清の乾隆帝は先々代康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する。1757年2月に乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。1759年、清はジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した。この時、兆恵(ジャオフイ)とフデ(富徳)の二人の将軍は各8000の兵でイリ地方の掃討戦を行う。「囲猟」すなわち山狩りによって、オイラート人は壊滅した。 清朝は1760年以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行い、1764年には満洲のシベ族兵士が新疆辺境守備を命じられ移住した。
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