清の介入とドンダーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:46 UTC 版)
詳細は「ドンダーの戦い」を参照 泰徳10年(1787年)7月、昭統帝は清に救援を求めた。乾隆帝の許可を得た両広総督の孫士毅(中国語版)は20万の兵を率いて紅河デルタに侵攻し昇龍を占拠。後黎朝の回復を宣言したが、実際は孫士毅が実権を握った。この年に大飢饉が起こり、清軍が略奪を働いたことで民心は後黎朝から離れた。この報告を聞いた阮恵は12月に檄文を発し、自らも皇帝を名乗り年号を「光中」とした(光中帝)。泰徳12年 / 光中2年1月5日(1789年1月30日)、光中帝の軍は昇龍に迫り、埬栘で清軍を敗走させた。孫士毅の逃亡を聞いた昭統帝は北京に亡命し、ここに後黎朝も滅んだ。
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