清の布政使司
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清朝は成立直後は明制を踏襲した。順治三年(1646年)、各省には依然として左右の布政使を置き、貴州省は右の布政使を置かず、南直隷部院侍郎を廃止して江南左布政使と江南右布政使を置いた。順治十八年(1661年)に江南分省を実施して、左布政使は江寧、右は蘇州に移駐した。 康熙二年(1663年)に陝西分省を実施。陝西右布政使は鞏昌に移駐して甘粛を治めた。康熙七年(1668年)に湖広分省して、湖広右布政使は長沙に移駐して湖南を治めた。康熙六年(1667年)に江南右布政使を江蘇布政使とし、左布政使は安徽布政使とした。陝西左布政使は西安布政使、右布政使は鞏昌布政使とした。湖広左布政使は湖北布政使、右布政使は湖南布政使とした。同時に、布政使が2人いる場合は1人にするように制度改革を行った(山東、山西、河南、江蘇、安徽、江西、福建、浙江、湖北、湖南、四川、広東、広西、雲南、貴州)。左右の違いはなく、従二品。陝西仍為両人、称為「守道」。康熙八年(1669年)、直隷省を設け、口北道度支使兼山西布政使とした。西安布政使は陝西布政使に改められ、鞏昌布政使は蘭州に移駐し甘粛布政使になった。 雍正二年(1724年)直隷守道は直隷に改められた。乾隆十八年(1753年)から各省の布政使だけを残し、領下の守道は布政使、参政、参議の肩書を兼ねることをやめた。乾隆二十五年(1860年)安徽省の布政使は安慶市に帰駐し、江蘇布政使は江寧と蘇州に分けられた。乾隆二十六年(1861年)二月には江寧駐在を江南江淮揚徐海通等処承宣布政使司、蘇州駐在は江南蘇松常鎮太等処承宣布政使司である。 清は元・明の習慣を踏襲して布政司を省・行省と俗称した。しかし、総督や巡撫が地方権力を掌握し始め、布政司の地位はその次に後退したことで、「省」の意味が変わり、布政司ではなく巡撫を基準とするようになった。清朝中葉までは19布政使司があったので、「十八行省」または「内地十八省」(江蘇省には両布政司がいたため)と俗称された。清はこの問題に気づいたので、「省」や「行省」を避けて「統部」と呼称されていることもあるが、「省」という言葉が一番よく使われている。 光緒十年(1884年)、甘粛新疆省を建省し、甘粛新疆布政使を増設し、迪化府に駐在した。光緒十三年(1887年)、福建台湾省を増設し、福建台湾布政使は台北府に駐在した。宣統二年(1910年)、各省布政使司を改めて財政公所を設け、その主官は布政使としたものの、経歴以下の各官職は廃止された。 清の布政使司の主官は左右布政使(康熙六年に一人削減された)で、その下には: 布政使司左右参政、従三品(常設ではない) 布政使司左右参議、従三品(常設ではない) 経歴司経歴一人、正六品(江寧、蘇州、湖南、甘粛には置かず) 都事一人、従七品(福建、河南各一人) 照磨所照磨一人、従八品(浙江、福建、四川、山西、甘粛各一人) 検校一人、正九品(雍正二年裁) 理問所理問一人、従六品。副理問一人、従七品(康熙三十八年裁) 庫大使一人、正八品 倉大使一人、従九品 宝源局大使一人、正九品(康熙三十八年裁)
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