清の布政使司とは? わかりやすく解説

清の布政使司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 10:25 UTC 版)

承宣布政使司」の記事における「清の布政使司」の解説

清朝成立直後は明制を踏襲した順治三年1646年)、各省には依然として左右布政使を置き、貴州省は右の布政使置かず、南直隷部院侍郎廃止して江南布政使江南布政使置いた順治十八年(1661年)に江南分省を実施して、左布政使江寧、右は蘇州移駐した。 康熙二年(1663年)に陝西分省を実施陝西布政使は鞏昌に移駐して甘粛治めた康熙七年1668年)に湖広省して湖広布政使長沙移駐して湖南治めた康熙六年(1667年)に江南布政使江蘇布政使とし、左布政使安徽布政使とした。陝西布政使西安布政使、右布政使は鞏昌布政使とした。湖広布政使湖北布政使、右布政使湖南布政使とした。同時に布政使2人いる場合1人にするように制度改革行った山東山西河南江蘇安徽江西福建浙江湖北湖南四川広東広西雲南貴州)。左右違いはなく、従二品陝西仍為両人、称為「守道」。康熙八年1669年)、直隷省設け口北道度支使兼山西布政使とした。西安布政使陝西布政使改められ、鞏昌布政使蘭州移駐甘粛布政使になった雍正二年(1724年直隷守道は直隷改められた。乾隆十八年(1753年)から各省布政使だけを残し領下の守道は布政使参政参議肩書兼ねることをやめた。乾隆二十五年(1860年安徽省布政使安慶市に帰駐し、江蘇布政使江寧蘇州分けられた。乾隆二十六年(1861年二月には江寧駐在江南江淮揚徐海通等処承宣布政使司蘇州駐在江南常鎮太等処承宣布政使司である。 清は元・明習慣踏襲して布政司を省・行省俗称した。しかし、総督巡撫地方権力を掌握始め布政司地位はその次に後退したことで、「省」の意味変わり布政司ではなく巡撫基準とするようになった清朝中葉までは19布政使司があったので、「十八行省」または「内地十八省」(江蘇省には両布政司がいたため)と俗称された。清はこの問題に気づいたので、「省」や「行省」を避けて「統部」と呼称されていることもあるが、「省」という言葉が一番よく使われている。 光緒十年1884年)、甘粛新疆省を建省し甘粛新疆布政使増設し迪化府に駐在した光緒十三年(1887年)、福建台湾省増設し福建台湾布政使台北府に駐在した宣統二年(1910年)、各省布政使司改め財政公所設け、その主官は布政使したものの、経歴以下の各官職廃止された。 清の布政使司の主官は左右布政使康熙六年に一人削減された)で、その下には: 布政使司左右参政、従三品常設ではない) 布政使司左右参議、従三品常設ではない) 経歴経歴一人、正六品(江寧蘇州湖南甘粛には置かず) 都事一人、従七品(福建河南一人) 照磨所照磨一人、従八品(浙江福建四川山西甘粛一人検校一人、正九品雍正二年裁) 理問所理問一人、従六品。副理問一人、従七品(康熙三十八年裁) 庫大使一人正八品 倉大使一人、従九品 宝源局大使一人、正九品康熙三十八年裁)

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