清の内憂外患に翻弄される琉球の進貢
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「清の内憂外患に翻弄される琉球の進貢」の解説
1851年、清で太平天国の乱が起きる。洪秀全をリーダーとする太平天国は「滅満興漢」をスローガンとして広範囲に勢力範囲を広げた。影響は1852年に派遣された進貢使から顕著となる。まず1852年の進貢使は乱のあおりを受けて北京到着が遅れ、そして北京からの帰途も江蘇省で1年余り動けなくなってしまい。1854年の5月になってようやく福州に辿り着いた。 1854年の進貢使はもっと深刻であった。福州に滞在していた進貢使に、今回はあえて北京へ来る必要はないとの命令が下された。驚いた進貢使は北京へ行き進貢の義務を果たしたいと懇願した。その結果、北京行きは認められたものの通常より約1年遅れの北京到着となり、しかも移動中は清側から護送の人員が付けられ、特に太平天国軍の勢力範囲の近くを通過する際には警護の人員を手厚く配するという措置が取られた。1856年、1858年の進貢時も問題は変わらず、軍事情勢を見ながら多くの兵員を配して琉球の進貢使を護送し、通常のスケジュールから大きく遅れながらも何とか進貢を行うことができた。 琉球側は清国内の情勢が険悪な中、なんとしてでも清への進貢の義務を果そうとした。大乱中にこのような外国使節に対する護送を行うことは清にとって大きな負担であり、担当役人のサボタージュなどの問題も発生した。しかし欧米諸国からの外圧に晒され、大乱も発生して危機に立たされる中で、清としてもこれまでの国家間関係の維持を図らなければならなかった。 しかし1860年と1862年の進貢使は北京へ向かうことが出来なかった。1860年は太平天国の乱に加えてアロー戦争の影響も加わったためである。1860年はイギリス、フランス軍が北京を占領して咸豊帝が北京から熱河へ逃げ出すという深刻な事態であり、進貢どころの話ではなかった。それでも琉球の進貢使は北京行きを懇願し続けたものの、清側は認めることなく帰国せざるを得なかった。1862年の場合は、アロー戦争は終結していたものの太平天国の乱は継続中で、清当局から北京行きの許可が下りず、やはり再三北京行きを懇願したものの認められずに帰国を余儀なくされた。 ところで太平天国の乱の拡大を見て、琉球側は乱の成り行きに重大な懸念を抱いた。太平天国側が勝利して王朝交代となる可能性を考慮せねばならなくなったのである。乱に対する見舞いの使者を清に送るかどうか、そして乱に対する対応が琉球王朝の首脳部の中で話し合われた。その結果、1853年の接貢船に安否を尋ねる書状を託し、福州側の意向を聞いて提出の可否を判断することになった。その結果、良い話でもないのに安否を尋ねる書状を提出するのはかえって良くないとの判断を受け、提出は見送られた。琉球にとって清への忠誠を守り続けることよりも中国王朝との関係の維持、継続が重要であり、王朝交代が起きた場合は新王朝(太平天国)との関係構築が必要との判断となった。 また琉球は福建当局からも難題を吹っ掛けられていた。外国からの干渉と内乱に苦しめられた清の中央政府は厳しい財政難に見舞われていた。そこで各地方に軍事費を自弁するよう求めざるを得ず、貨幣発行権を各省に与えることにしたのである。福建省も貨幣の発行を始め、財政的に潤ったものの銅不足で発行の継続が危ぶまれる事態に陥った。そのような中で琉球が常貢として銅を朝貢していることに目を付けた。1856年、福建当局は琉球に銅を求めてきたのである。当初、琉球側は断ったものの、福建当局の支援無しで進貢を続けていくことも難しい。結局、銅の調達を薩摩藩に依頼し、琉球国内でも銅器の供出を進め、何とか福建当局に銅を引き渡すことが出来た。
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