清の中華思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 12:39 UTC 版)
「夷」である満洲人が元を継承し作り上げ、中華圏を支配した大清国(.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian BT","Mongolian Baiti","Mongolian Universal White","Noto Sans Mongolian","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian BT","Mongolian Baiti","Mongolian Universal White","Noto Sans Mongolian"}ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩᡤᡠᡵᡠᠨラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン)では漢人の王朝とは異なっていた。清は満洲人、モンゴル人、漢人、チベット、イスラムの同君連合であった。清の皇帝は満洲人にとっては八旗を率い、自らも上三旗の旗王である部族長会議の議長、旧明領では明王朝を継承する中華天子、モンゴルにとってはチンギス・ハーン以来の大ハーンであり、チベットでは仏教の最高施主であり文殊菩薩の化身とされ、東トルキスタンでは異教徒でありながらイスラムの保護者であり、様々な人々に対し様々な顔を持ちながら統合していた。 儒教も仏教もイスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえ、共通する価値を拾い上げながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。中華圏では中華皇帝としてふるまい、満洲人を夷狄として反抗しようとする漢人にどのように対するかが課題となった。雍正帝は「大義覚迷録」で古代の聖王である舜や、周の文王の出自が「夷」であったことを例に挙げて出自では無く徳の有無が重要とし、中華支配を正当化した。政策としても辮髪などの胡俗の強制や反清勢力の鎮圧と並行して科挙の存続やかつて反清運動の中心となった者たちに明史の編纂をさせるなど、中華の文化を尊重して漢人知識人に対し名誉と利権に与る道を開く懐柔政策を行い清朝への夷狄視を減らしていた。ただし漢人の科挙官僚が政治を担えたのは旧明領だけである。また北方から来たロシアとは対等なネルチンスク条約を締結しているが、乾隆帝の時代に中華として南方経由で来たイギリスとの対等外交を拒絶した。 その後に夷狄とみなしていた西洋列強に領地や冊封国を侵食され、それに対し中体西用による洋務運動で対抗しようとしたが、実質的には漢人有力者が自身が保有する私軍の装備の強化を行っているに過ぎず、日清戦争で敗れた後、制度・思想上も近代化の必要に迫られ華夷秩序は後退するが、清朝の弱体化と革命思想の流入などにより漢民族のナショナリズムとしての中華思想はむしろ増大し、辛亥革命に繋がった。魯迅は中華思想に染まって現実を見ようとしない人々を痛烈に批判し、「狂人日記」「阿Q正伝」などを記して中華思想からの覚醒を呼びかけた。 なお清の漢化については議論がある。新清史は1990年代半ばに始まる歴史学的傾向であり、清王朝の満洲人王朝としての性質を強調している。以前の歴史観では中国(中華人民共和国)の歴史家を中心に漢人の力を強調し、清は中華王朝として満洲人と漢人が同化したこと、つまり「漢化」が大きな役割を果たしたとされていた。しかし1980年代から1990年代初頭にかけて、日本やアメリカの学者たちは満洲語やモンゴル語、チベット語やロシア語等の漢字文献以外の文献と実地研究を重視し、満洲人は満洲語や伝統である騎射を保ち、それぞれの地域で異なった体制で統治していたため長期的支配が行えたとし、中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調している。満洲人の母語はアルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した領土の4分の3が非漢字圏であったことなど「清朝は秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」という一般に流布している視点は正確ではないとしており、中華王朝と言う意味の中国はあくまで清の一部であり清は中国ではないとしている。 中国国内では「新清史」の学術的成果は認められつつあるものの、「漢化」を否定する主張については反対が根強くある。2016年においても劉文鵬が「内陸亜洲視野下的“新清史”研究」で「『新清史』は内陸アジアという地理的、文化的概念を政治的概念に置き換えたことにより中国の多民族的国家の正統性を批判している」としていることからも、現在の中国においては新清史の学術的価値は認められつつも、その主張には依然として反対する流れに変化は無いようである。
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