清の反発と琉球復旧運動
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「清の反発と琉球復旧運動」の解説
松田道之から進貢そして冊封使の受け入れ禁止を命じられた琉球側は、松田の帰京に同乗して上京した三司官の池城親方らが清との関係継続を求める請願活動を展開した。池城親方らは明治政府に対して嘆願書の提出を繰り返し、更には政府高官に直接嘆願行為を繰り返した。池城親方らの嘆願は全く効果が見られず、1876年5月には太政大臣三条実美の名で、池城親方らの退京命令が出された。しかし琉球側は替わりに三司官の富川親方らを上京させ、嘆願行為を止めなかった。 その一方で1874年の進貢船以降、琉球の朝貢活動が停止したために、まず1875年に派遣予定であった接貢船が福州に到着しなかった。そして前述のように光緒帝の慶賀使も派遣されて来ない。琉球側の異変を感じ取った福州側から、接貢船の不着と慶賀使の未派遣について事情を尋ねる文書が届けられた。まず琉球側は明治政府に文書に回答したいとの要請を行ったが、回答は許されなかった。明治政府に対する嘆願は不調のままで、更に清側からの事情を確認する書状に対する返答も拒否されたため、琉球側は清に密使を派遣して窮状を訴えることにした。 密使の代表者は尚泰の姉の婿である向徳宏であった。向らは1877年3月に福州に到着すると、早速清側に琉球の窮状について訴えた。情報を入手した清は、清側は北京駐在の日本公使に対して抗議を行うとともに、初代駐日大使として赴任する何如璋が日本側と交渉することになった。東京に赴任した何は、早速日本側に琉球の進貢を禁止した措置について激しく抗議した。何如璋は在京中の琉球関係者とも連絡を取り合い、ともに琉球の進貢禁止措置の撤回に向けて粘り強く運動を続けた。しかし日本側は琉球の問題は日本の内政問題であると、何の抗議に全く取り合わなかった。またかつて琉球と条約を締結したアメリカ、フランスなどの駐日公使に対しても三司官が請願書を提出した。請願書は日本政府が行った進貢、慶賀使などの遣使の禁止、清からの冊封使受け入れの禁止の撤回を要求し、以前の日中両属状態に復帰出来るよう影響力を発揮するよう働きかけていた。しかし各国とも琉球側の立場に同情を示しながらも、結論としては日本の措置を黙認した。 日本側は琉球がこれまで行ってきた進貢や清側からの冊封使の派遣は実がないものであると主張した。そして薩摩藩主の代替わりに際して新藩主に琉球国王と三司官が、薩摩藩の法令や制度に従う旨の起請文を提出してきたこと、薩摩藩に租税を支払っていたことを日本による琉球実効支配の例として示した。 結局1879年3月27日、処分官に任命された松田道之は首里城で藩を廃し沖縄県とするとの琉球処分を宣告した。4月4日には公式に沖縄県の発足が公表される。琉球処分時、清に派遣された密使の向徳宏らは、最後の進貢使であった毛精長とともに福州の琉球館に滞在していた。規則では琉球人は北京進貢時以外は福州周辺のみの活動しか許されていなかったが、琉球王国滅亡の知らせを受けて多くの琉球人が北京方面へ向けて移動し、琉球王国復活に向けて李鴻章など清の要人らに対し運動を開始する。この運動を琉球復旧運動と呼んだ。 清国内で琉球復旧運動が行われている中、沖縄からはしばしば清へ密航し、武力行使を含めた清の介入を嘆願する動きが続いた。しかし1880年代後半以降になると琉球復旧運動を主導してきた向徳宏や毛精長らが相次いで亡くなるなど、運動も徐々に下火になっていった。結局琉球復旧運動は1895年、日清戦争で清が敗北することによって終焉を迎えていく。
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