清の建国(1636年)
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ホンタイジは明の征服に前向きではなかった。しかし范文程(中国語版)をはじめとする漢人の官吏は、皇帝であることを宣言し明の領地を奪取するよう助言した。ホンタイジは助言を受け入れて、1636年5月14日に国号を後金から大清に変更し、儒教式の式典で皇帝に即位した。ホンタイジはモンゴルで大元伝国の玉璽を手に入れており、満洲人のハンのみならず、モンゴル人や漢人を含む三民族の君主となった。 ホンタイジは漢人の社会的地位や生活水準を改善した。奴隷となっていた漢人の一部を解放し、漢人の学術官吏を新規雇用する科挙を行い、法律には明の制度を採用した。行政組織も明を参考にして設立され、中央官庁の各部の長官(承政)以下のポストには満洲人・モンゴル人・漢人それぞれに民族別の定員を定めた。漢人の官吏が統治する漢人の軍事自治区を形成して、満洲人の不法侵入を禁じた。明の司令官の降伏を歓迎し、並んで食事をするなど明の皇帝であれば不可能な関係を構築した。これに対してアミン率いる満洲人は、乾安と永平(現在の盧竜県)の人々を虐殺し、ホンタイジに不満を表明した。ホンタイジはアミンを収監することで応え、アミンは獄死した。 のちにホンタイジが明の投降者である洪承疇を寛大に扱った時には、満洲人の軍人から不満が上がった。ホンタイジは軍人たちに「道ゆく人にたとえれば、君らはみな盲人のようなものだ、いま道案内を得たのだから、どうして喜ばずにおられよう」と言ったとされる。ホンタイジはこのように説明して、漢人の手助けが必要であることを認めさせた。
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