教育・歴史記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
女真は、ヌルハチが八旗を再組織した際に、満洲の無関係な氏族のグループから人為的に作られた。彼らは新たな満洲のムクン(mukun、氏族)を形成し、ハラ(hala、氏)として地名など地理的な起源の用語を用いた。女真と満洲の氏族の起源譚が整合性を欠いたため、清は満洲の諸氏族の歴史を創造し、文書化・体系化しようとした。アイシンギョロ氏の起源にまつわる伝説は、中国東北地方の神話を題材として創作され、『満洲実録(manju i yargiyan kooli)』に記録された。 ホンタイジによるジュシェン(女真)からマンジュ(満洲)への改名は、満洲人の先祖建州女真が漢人の支配を受けた事実を隠すことにあった。満洲人のアイシンギョロ氏が明に支配されていた記録を公衆の目に触れることを禁じ、清の宮廷に「清太祖五皇帝実録」と「満洲実録図」(太祖実録図)の初版本を注意深く隠した。明の時代の朝鮮人は、朝鮮半島北部の女真の居住地を「上国」と呼んだ。清は明との関係を慎重に隠すために、『明史』から女真(満洲)が明に仕えていたことを示す記述を除外した。このために明実録は明史の出典に使われなかった。清の建国者が明の従者であったという明史での言及を拒否することは、反乱の非難を避ける意味合いがあった。 清政府は統治に合法性をもたせるために、1652年に民衆教化の方針を出し、教育政策を進めた。また、王陽明については没後に弾劾を行い、他方で義学と呼ばれる寄付金で設立する学校を推進した。征服された側の体験者の記録としては、『揚州十日記』や『嘉定屠城紀略』があったが、清の時代では流通が許されなかった。
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