明との関係
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1403年から1413年の間に明からマラッカに6度使節が派遣されたが、そのほとんどは鄭和の率いる艦隊であった。鄭和艦隊の来航に先立つ1403年に明の宦官の尹慶がマラッカに来航しており、マラッカは彼より朝貢を呼びかけられていた。これに応じてパラメスワラは使節を送り、1405年9月にマラッカの使者は尹慶と共に明の宮廷を訪問した。マラッカの朝貢を喜んだ永楽帝はパラメスワラの王位を認め、以降マラッカは明に何度も朝貢使節を送る忠実な朝貢国となった。1411年にはパラメスワラ自らが妻子と家臣と共に鄭和艦隊に同乗して明を訪問し、明の宮廷では祝宴が催され、パラメスワラの帰国に際しては使節団に金品が贈られた。パラメスワラ、イスカンダル・シャー、モハメド・シャーら王国成立直後の指導者は自ら中国に足を運び、その数は5回にのぼった。 明の大艦隊の指揮官である鄭和はマラッカの寄港に適した立地、海岸の近くにある大きな井戸(三宝井)が飲料水の補給に便利である点に着目し、マラッカに「官廠」という基地を建設した。明の朝貢国の中で国王自身が頻繁に朝貢した国はマラッカの他に無く、マラッカの王が安心して朝貢の旅に出られたのは官廠に負うところが大きかったと思われる。現在のマラッカにも、三宝城、三宝井、三宝墩などの鄭和ゆかりの遺跡が存在する。 こうしてマラッカは先に成立した周辺の東南アジア諸国と同等の権利を与えられ、朝貢貿易における利益を勝ち取るが、明との関係は交易以外に、アユタヤの攻撃を防ぐのにも大いに役立った。1407年、1421年、1426年から1433年の間、3度アユタヤの侵入を受けるが、そのたびに明がアユタヤに警告を発し、王国の安全が保障された。
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明との関係
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1402年に即位した明の永楽帝は対外政策に力を入れた皇帝だった。明は1406年、中央チベットのネドン政権(5代目タクパ・ギェルツェン)を承認し、闡化王の称を与えた。合わせて東部のリンとゴンジョ小王国を承認した。一方、明は元朝に倣ってカギュ派やサキャ派に師を送るよう要請する使節を送ったが断られ、代わりに1407年にはカルマ派の長カルマパ5世が、1408年にはゲルク派の開祖ツォンカパの代理として弟子ジャムヤン・チョジェ・シャーキヤ・エシェが明を訪問している。 明は1409年、チベットの知事を帝国の組織に編入した。ただし現代のチベット研究者ロラン・デエは、これはあくまで形式的なものであり、かつての元の時代と異なって政治的にも宗教的にも両者には関わりがなかったことを強調している。
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