明との関係とは? わかりやすく解説

明との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 05:43 UTC 版)

マラッカ王国」の記事における「明との関係」の解説

1403年から1413年の間に明かマラッカ6度使節派遣されたが、そのほとんどは鄭和率い艦隊であった鄭和艦隊来航先立つ1403年に明の宦官の尹慶がマラッカ来航しており、マラッカは彼より朝貢呼びかけられていた。これに応じてパラメスワラは使節送り1405年9月マラッカ使者は尹慶と共に明の宮廷訪問したマラッカ朝貢喜んだ永楽帝はパラメスワラの王位認め以降マラッカ明に何度も朝貢使節を送る忠実な朝貢国となった1411年にはパラメスワラ自らが妻子家臣と共に鄭和艦隊同乗して明を訪問し、明の宮廷では祝宴催され、パラメスワラの帰国に際して使節団金品贈られた。パラメスワラ、イスカンダル・シャー、モハメド・シャーら王国成立直後指導者は自ら中国足を運び、その数は5回にのぼった。 明の大艦隊の指揮官である鄭和マラッカ寄港適した立地海岸近くにある大きな井戸三宝井)が飲料水補給に便利である点に着目しマラッカに「官廠」という基地建設した。明の朝貢国の中で国王自身頻繁に朝貢した国はマラッカの他に無くマラッカの王が安心して朝貢の旅に出られたのは官廠に負うところが大きかった思われる現在のマラッカにも、三宝城、三宝井、三宝墩などの鄭和ゆかりの遺跡存在する。 こうしてマラッカ先に成立した周辺東南アジア諸国同等権利与えられ朝貢貿易における利益勝ち取るが、明との関係は交易以外に、アユタヤ攻撃を防ぐのにも大い役立った1407年1421年1426年から1433年の間、3度アユタヤ侵入を受けるが、そのたびに明がアユタヤ警告発し王国の安全が保障された。

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明との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:28 UTC 版)

パクモドゥパ政権」の記事における「明との関係」の解説

1402年即位した明の永楽帝対外政策力を入れた皇帝だった。明は1406年中央チベットネドン政権(5代目タクパ・ギェルツェン)を承認し、闡化王の称を与えた合わせて東部リンゴンジョ小王国を承認した一方、明は元朝倣ってカギュ派サキャ派に師を送るよう要請する使節送った断られ代わりに1407年にはカルマ派の長カルマパ5世が、1408年にはゲルク派開祖ツォンカパ代理として弟子ジャムヤン・チョジェ・シャーキヤ・エシェが明を訪問している。 明は1409年チベット知事帝国組織編入した。ただし現代チベット研究者ロラン・デエは、これはあくまで形式的なものであり、かつての元の時代異なって政治的に宗教的に両者には関わりがなかったことを強調している。

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