明との関係悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:00 UTC 版)
外交面では太祖の政策を継承して朱元璋との友好関係の維持に努めた。太祖が死んだ時にも相互に使者を送り、開熙2年(1368年)に北伐を起こした朱元璋が大都を攻略した時にも祝賀の書を送っている。しかし北伐を終えた時期から明(朱元璋)側の対応が変わってきた。 まず開熙3年(1369年)、朱元璋は順帝に方物(特産品)の献上を求めてきた。順帝がこれに応ずると朱元璋は朝貢への返答同様に璽書を送ってきた。さらにその年の冬、朱元璋は平章の楊璟を使者として順帝に帰順を勧めてきた。順帝がこれを断ると楊璟は陳友諒等の例を挙げながら、世の中の流れを見れば抵抗するよりも帰順する事の方が良いと諭すが、結局夏はこれを拒否した。これ以降、夏と明は断交状態になり、開熙4年(1370年)に朱元璋が雲南征伐の折に使者を送っても、夏は返書を送る事はなかった。
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