明の侵攻と夏の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:00 UTC 版)
開熙5年(1371年)正月、明が夏遠征軍を送り出した。遠征軍は二手に分かれており、湯和・廖永忠等の水軍が瞿塘峡経由で重慶を目指し、傅友徳・顧時等の陸上部隊は甘粛方面から成都を目指した。 この時期はまだココ・テムルなど明に抵抗できている勢力もあった事から、夏の朝廷でも戴寿を始め主戦論に傾いており、瞿塘峡を拠点とした防衛戦を行う事になった。しかし夏軍が瞿塘峡で大敗し、明軍が夔州さえ陥落させると、怖がった順帝は成都に逃げ出した。 そこへ来て明軍の破竹の勢いに怯えた彭太后が降伏を主張したため、順帝は降伏し夏は滅亡した。
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