明の布政使司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 10:25 UTC 版)
承宣布政使司の前身は元朝の行中書省だった。宋・金・元の官吏は職分「行・守・摂」を兼ねることがあった。「行」は本職より下位による兼職を指す。元代の軍事統帥は中書省宰相を兼領するのに対し、通常の軍事統帥者は親王または国王であるため、「行」中書省と呼ばれる。至正16年(1356年)に朱元璋が集慶路を陥した後、韓林児によって「呉国公」を授けられた。朱元璋は呉国公兼領江南等処行中書省となった。龍鳳4年(1358年)、婺州に中書分省を設けた。以後、地方を攻略する度に、すぐに行省を設けた。 明初は元制を踏襲して、中書省は京城周辺の地域を、行中書省は全国各地を管轄した。洪武9年(1376年)、胡惟庸の獄の影響により、中書省と行中書省を廃止。浙江、江西、福建、北平、広西、四川、山東、広東、河南、陝西、湖広、山西の行省は承宣布政使司となった。行中書省の主官である行省平章政事と左・右丞は廃止された。行省参知政事は布政使と改められ、待遇は正二品。左右の参政は従二品。行省の左右の司は経歴司となった。行中書省のもともとの職権はこのときに三分割され、布政使司は民政事務の専従となった。承宣布政使の意味は「朝廷有徳澤、禁令、承流宣播、以下於有司」で、略称は布政使司、布政司。俗称あるいは通称は「行省」、「省」。ここから承宣布政使司は行省のかわりに地方の一級行政区画の名称となった。南京応天府付近は承宣布政使司を設けず、中書省の直轄となった。 洪武13年(1380年)、胡惟庸の獄の後、中書省は廃止され、京師(直隷)と全国の十二承宣布政使司は六部に直属することになった。布政使は従三品、参政は従四品に改められた。洪武14年(1381年)には左右の参議を増設して正四品とした。また、布政使を1名増員して、各布政使司には左と右の二人の布政使が置かれるようになった。洪武15年(1382年)に雲南布政司を設けた。洪武22年(1389年)に布政使を従二品と定めた。建文年間に布政使を正二品に格上げして各1人に減らしたが、永楽帝は旧制に復帰させた。永楽元年(1403年)に北平承宣布政使司を「行在」に昇格させ、布政使司を廃止した。永楽5年(1407年)に交趾布政司を設け、永楽11年(1413年)を貴州布政司(布政使は1名のみ配置)を設けた。宣徳3年(1428年)に交趾布政司を廃止した。これで全国は北直隷、南直隷を除いて十三省と定まり、「両京十三省」と俗称された。 宣徳年間から臨時任制で軍事的性格のある総督や巡撫が登場したが、特別な許可がなければ監理食糧や監理刑名について布政使や按察使の職権に干渉してはならなかった。明の初めから正統年間にかけて布政使司の地位は六部と同等であり、中央で尚書や侍郎や副都御史に任ぜられることがしばしばあった。景泰年間のあとは布政司の地位は下がり、六部を授官することもなくなった。 明の布政使司の主官は左右の布政使で、その下に以下のような官職があった: 布政使司左右参政(定員数不定)、従三品。 布政使司左右参議(定員数不定)、従四品。参政と参議は諸道を分掌した:督糧道、督冊道、分守道。 経歴司経歴一人、従六品。 都事一人、従七品。 照磨所照磨一人、従八品。 検校一人、正九品。 理問所理問一人、従六品。 副理問一人、従七品。 提控案牘一人。 司獄司司獄一人、従九品。 庫大使一人、従九品、副使一人。 倉大使一人、従九品、副使一人。 雑造局、軍器局、宝泉局、織染局大使各一人、従九品、副使各一人。
※この「明の布政使司」の解説は、「承宣布政使司」の解説の一部です。
「明の布政使司」を含む「承宣布政使司」の記事については、「承宣布政使司」の概要を参照ください。
- 明の布政使司のページへのリンク