明の反乱とは? わかりやすく解説

明の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)

明清交替」の記事における「明の反乱」の解説

国・勢指導者状況目的白蓮教聞香教) 徐鴻儒 明に対す反乱。徐鴻儒中興烈帝自称 農民反乱王嘉胤 明に対す反乱 農民反乱李自成 明に対す反乱 農民反乱張献忠 明に対す反乱 反乱軍 孔有徳耿仲明 明の兵を率いて反乱を起こす呉橋兵変)。のちに清に合流洪承疇 反乱の鎮圧にあたる 1621年少数民族彝族四川反乱起こし、明は1629年鎮圧した1618年後金対策として重税課せられ、民衆の間では腐敗した官僚郷紳軍隊対する不満が高まった明末には白蓮教はじめとして新興宗教相次いで創設されこの世終末告げる末劫説や救世主出現告げる説が流行した1622年には、白蓮教徒だった徐鴻儒中国語版)が聞香教と呼ばれる教団指導して中興烈帝名乗って反乱起こした。徐鴻儒山東省運河沿いを拠点活動し首領多くあだ名持ち一丈青、黒旋風、混江龍など『水滸伝』の登場人物名を使う者もいた。反乱軍子供にいたるまで一人として投降せず、徐鴻儒捕らえられ鎮圧された。 1627年28年陝西省干害起き飢餓襲われ農民反乱起こした1628年7月王嘉胤起こした反乱陝西各地拡大し李自成張献忠らも反乱加わった給与支払い滞っていた兵士や駅卒も反乱加わり1630年代には大規模な反乱山西省河南省湖広行省安徽省四川省へと拡大した1631年には孔有徳耿仲明による呉橋兵変(英語版)が起こった兵士たちは、補給物資賃金不足していたために明に対して反乱起こした。彼らはその後渤海渡って後金帰順し、広鹿島からは尚可喜帰順した孔有徳尚可喜の軍はホンタイジ欲していた西洋式大砲装備しており、ホンタイジ孔有徳恭順王、耿仲明に懐順王、尚可喜平南王の称号与えて皇族として待遇し、のちに3人が治める地を三藩呼んだ

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明の反乱(1639年-1642年)

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反乱軍は、洪承疇らが鎮圧あたったこともあり一時的に低調となったが、全国的な飢饉によって再び拡大する餓死しかけた難民災害両親亡くした孤児給料未払い解雇された駅卒や兵士がおり、1642年には中国全土盗賊叛徒転じた農民数百万人単位で家を放棄して流賊になり、各地略奪して回った土寇とも呼ばれる盗賊集団活動し李自成は均田と免糧を合言葉にして飢民味方引き入れ数十反乱軍洛陽開封襄陽次々占領した。均田免糧を提案したのは、李自成軍に参加した巌だった。巌は富裕者の財産分配したり、兵士婦女姦淫した場合死刑とするなど農民軍規律を守るために働いた。 明は後金侵入にも対応しなければならず、農民反乱拡大一因となった主な反乱には李自成張献忠による鳳陽県略奪開封戦いがある。開封戦いでは、明の総督李自成止めるために1642年黄河洪水英語版)を人為的に引き起こした

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