明の反乱
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国・勢力指導者状況・目的白蓮教(聞香教) 徐鴻儒 明に対する反乱。徐鴻儒は中興福烈帝を自称 農民反乱軍 王嘉胤 明に対する反乱 農民反乱軍 李自成 明に対する反乱 農民反乱軍 張献忠 明に対する反乱 反乱軍 孔有徳、耿仲明 明の兵を率いて反乱を起こす(呉橋兵変)。のちに清に合流 明 洪承疇 反乱の鎮圧にあたる 1621年に少数民族の彝族が四川で反乱を起こし、明は1629年に鎮圧した。1618年に後金対策として重税が課せられ、民衆の間では腐敗した官僚、郷紳、軍隊に対する不満が高まった。明末には白蓮教をはじめとして新興宗教が相次いで創設され、この世の終末を告げる末劫説や救世主出現を告げる説が流行した。1622年には、白蓮教徒だった徐鴻儒(中国語版)が聞香教と呼ばれる教団を指導して、中興福烈帝を名乗って反乱を起こした。徐鴻儒は山東省の運河沿いを拠点に活動し、首領は多くがあだ名を持ち、一丈青、黒旋風、混江龍など『水滸伝』の登場人物名を使う者もいた。反乱軍は子供にいたるまで一人として投降せず、徐鴻儒は捕らえられて鎮圧された。 1627年と28年に陝西省で干害が起き、飢餓に襲われた農民は反乱を起こした。1628年7月の王嘉胤が起こした反乱が陝西各地に拡大し、李自成や張献忠らも反乱に加わった。給与の支払いが滞っていた兵士や駅卒も反乱に加わり、1630年代には大規模な反乱が山西省、河南省、湖広行省、安徽省、四川省へと拡大した。 1631年には孔有徳と耿仲明による呉橋兵変(英語版)が起こった。兵士たちは、補給物資と賃金が不足していたために明に対して反乱を起こした。彼らはその後、渤海を渡って後金に帰順し、広鹿島からは尚可喜が帰順した。孔有徳や尚可喜の軍はホンタイジが欲していた西洋式の大砲を装備しており、ホンタイジは孔有徳に恭順王、耿仲明に懐順王、尚可喜に平南王の称号を与えて皇族として待遇し、のちに3人が治める地を三藩と呼んだ。
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明の反乱(1639年-1642年)
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反乱軍は、洪承疇らが鎮圧にあたったこともあり一時的に低調となったが、全国的な飢饉によって再び拡大する。餓死しかけた難民や災害で両親を亡くした孤児、給料の未払いや解雇された駅卒や兵士がおり、1642年には中国全土で盗賊や叛徒に転じた。農民は数百万人単位で家を放棄して流賊になり、各地で略奪して回った。土寇とも呼ばれる盗賊集団が活動し、李自成は均田と免糧を合言葉にして飢民を味方に引き入れ、数十万の反乱軍は洛陽、開封、襄陽を次々に占領した。均田免糧を提案したのは、李自成軍に参加した李巌だった。李巌は富裕者の財産を分配したり、兵士が婦女を姦淫した場合は死刑とするなど農民軍の規律を守るために働いた。 明は後金の侵入にも対応しなければならず、農民反乱の拡大の一因となった。主な反乱には李自成と張献忠による鳳陽県の略奪や開封の戦いがある。開封の戦いでは、明の総督は李自成を止めるために1642年黄河洪水(英語版)を人為的に引き起こした。
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