国民軍への参加
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安徽武備練軍学堂を卒業し、安徽新軍に入隊する。徐錫麟の安慶起義に参加するも失敗され投獄される。同盟会支援者が獄卒を買収したためほどなくして出獄出来た。1911年(宣統3年)の辛亥革命では、李徴五(中国語版)の上海光復軍に参加した。 1912年(民国元年)、南京臨時政府第1軍北伐前哨司令に任じられている。同年、第1軍第3師(師長:冷遹(中国語版)→張宗昌)の輜重兵営長を務める。1913年(民国2年)3月31日、輜重兵中校。また同年、微山湖で緑林の徒であった褚玉璞を迎え入れる。同年7月の二次革命(第二革命)でも引き続き輜重兵営長を務めるが、敗北して日本に亡命し、東京府荏原郡入新井町の浩然廬(浩然学社)に入学した。1914年(民国3年)、中華革命党に加入する。帰国後、1917年(民国6年)7月成立の護法軍政府海軍陸戦隊大隊長。民国7年(1918年)より、孫文が発動した護法戦争に参加。1921年(民国10年)5月に北伐軍大隊長となるが、陳炯明の反乱で北伐が挫折すると一時上海に寓居する。 1924年(民国13年)9月に北京政府・奉天派側の盧永祥に投じ、浙江督軍署別働隊司令に任ぜられたが敗北して上海、天津を経て山東省に逃れ、11月、張宗昌率いる直魯聯軍の先遣第2梯隊司令官。この部隊は元は王承斌の第23師で、李景林に一方的に武装解除させられたものであった。2000人の将兵を擁したが、武器が足りなかったため、張宗昌と褚玉璞から支援を受けた。 翌1925年(民国14年)5月、武装解除した山東陸軍混成第7旅(長:胡翼儒)を吸収合併し惠民で第6旅に改編。さらに同年秋、第24師に拡充され師長兼兖州鎮守使に昇進する。しかし、1926年(民国15年)1月、部隊を連れて直魯聯軍からの離脱を宣言し、馮玉祥率いる国民軍に転じ、第5軍軍長兼直魯豫邊防剿匪司令に任じられている。同年9月の五原誓師とともに国民聯軍第2軍軍長等に任じられ、さらに中国国民党国民聯軍最高特別党部執行委員も兼任した。 1927年(民国16年)6月、国民革命軍第2集団軍第3方面軍総指揮兼河南省政府委員に任じられ、武漢国民政府に属して第9方面軍総指揮となる。以後、国民革命軍第11路総指揮、第1集団軍第4軍団総指揮、済南衛戍司令、左路軍総指揮などを歴任して、北伐に従軍した。
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