国民軍への参加とは? わかりやすく解説

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国民軍への参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/17 04:51 UTC 版)

方振武」の記事における「国民軍への参加」の解説

安徽武備軍学堂を卒業し安徽新軍入隊する徐錫麟安慶起義に参加する失敗され投獄される同盟支援者獄卒買収したためほどなくして出獄出来た1911年宣統3年)の辛亥革命では、李徴五(中国語版の上海光復軍に参加した1912年民国元年)、南京臨時政府第1軍北伐前哨司令任じられている。同年第1軍第3師(師長:冷遹(中国語版)→張宗昌)の輜重兵営長を務める。1913年民国2年3月31日輜重兵中校。また同年微山湖で緑林の徒であった褚玉璞迎え入れる同年7月二次革命第二革命)でも引き続き輜重兵営長を務めるが、敗北して日本亡命し東京府荏原郡入新井町浩然廬(浩然学社)に入学した1914年民国3年)、中華革命党に加入する。帰国後、1917年民国6年7月成立護法軍政府海軍陸戦隊大隊長民国7年1918年)より、孫文発動し護法戦争参加1921年民国10年5月北伐軍大隊長となるが、陳炯明反乱北伐挫折する一時上海寓居する。 1924年民国13年9月北京政府奉天派側の盧永祥投じ浙江督軍別働隊司令に任ぜられたが敗北して上海天津経て山東省逃れ11月張宗昌率いる直聯軍の先遣第2隊司令官。この部隊は元は王承斌の第23師で、李景林一方的に武装解除させられたものであった2000人の将兵擁したが、武器足りなかったため、張宗昌褚玉璞から支援受けた。 翌1925年民国14年5月武装解除した山東陸軍混成第7旅(長:胡翼儒)を吸収合併惠民で第6旅に改編。さらに同年秋、第24師に拡充され師長兼兖州鎮守使に昇進する。しかし、1926年民国15年1月部隊連れて聯軍からの離脱宣言し馮玉祥率い国民軍転じ第5軍軍長兼直邊防剿匪司令任じられている。同年9月五原誓師とともに国民聯軍第2軍軍長等に任じられ、さらに中国国民党国民聯軍最高特別党部執行委員兼任した1927年民国16年6月国民革命軍第2集団第3方面軍総指揮河南省政府委員任じられ武漢国民政府属して第9方面軍総指揮となる。以後国民革命軍11総指揮第1集団軍第4軍団総指揮済南衛戍司令、左路軍総指揮などを歴任して北伐従軍した

※この「国民軍への参加」の解説は、「方振武」の解説の一部です。
「国民軍への参加」を含む「方振武」の記事については、「方振武」の概要を参照ください。

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