国民軍との連携
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 15:10 UTC 版)
以降、河南省に留まり、胡景翼やその後任の岳維峻と連携しその指揮下に入った。翌1925年(民国14年)2月の「胡憨の戦い」では、樊鍾秀は郟県を確保し、禹県に展開する鄧瑜・蒋世杰の2個旅とともに北西の洛陽を目指した。東の滎陽から向かった胡景翼率いる第2軍主力(第1師及び楊瑞軒・李鴻翥の2個旅)、密県の李雲竜と洛陽東隣の偃師にて合流し、憨玉琨の退路を断つ作戦であった。3月6日の停戦交渉決裂後、洛陽南部の汝陽県に葉荃とともにいたが、8日、劉鎮華の撤退命令を拒んだ張治公(中国語版)と交戦、序盤戦では敗北し苦戦を強いられたが、間もなくして澠池県の鎮嵩軍主力が完全に瓦解し、張治公も撤退したため難を逃れた。胡憨の戦い終結までに、捕虜1万余人、各種砲28門、軽重機関銃21挺、小銃及びピストル9700余挺を鹵獲する成果を上げた。同年、部隊名を「建国軍」と改め、4個路と3個独立旅、計3万人~4万人を擁するまでに至った。五・三〇事件では、「滬案後援」を打ち出し、5万銀元の寄付を集め、また慰問団を結成した。12月、国民軍第3軍の山東省進出に乗じて山西省に進攻するも撃退される。 1926年(民国15年)1月、呉佩孚の討賊聯軍は河南省進攻を決意(鄂豫戦争)、東から靳雲鶚の第1軍、西から劉鎮華の陝甘軍、南から寇英傑の第2路軍が侵攻を開始した。樊鍾秀は駐馬店などで戦ったが、結局3月に全省を制圧される。樊鍾秀は呉佩孚に降り、豫軍の指揮権も同じ豫軍出身者の寇英傑に奪われた。樊鍾秀は国民党と密かに連絡を取り、4月に、西山会議派が上海で開いた第2回全国代表大会において、中央監察委員に任ぜられている。 6月、自身が育った登封で挙兵、宝豊県・魯山県・臨汝県・郟県の5県を制圧。民政・財政を省から独立させ、自身で県知事を選任するなど自治を開始した。寇英傑は呉佩孚より鎮圧を命じられ、5県を包囲。しかし樊鍾秀は部隊の一部を密かに南陽に向けており、12日に南召県城を制圧し、14日に南陽4県を制圧。鎮圧に向かった寇英傑の部隊と、24日、西部の方城県で6日間激戦を繰り広げる。樊鍾秀は京漢鉄路を確保した寇英傑に次第に追い詰められ、7月7日、寇英傑と陝軍の陳家謨に社旗県を奪われる。8月2日、張治公・劉佐竜によって襄城・宝豊・郾城が攻められ2日後に陥落、樊鍾秀の部隊は西部の方城県と北部の沁陽に二分して追いやられた。8月20日、樊鍾秀はついに南陽を出て湖北省へ逃れる。その際、来るべき武漢攻略のため李大釗と王法勤の指示で孝感や樊城を確保した。 同年9月、武漢国民政府に身を寄せ、国民革命軍第13軍軍長に任ぜられる。17日、部下だった任応岐や李振亜・馬文徳・袁家驥ら河南省に留まっていた豫軍部隊長が呉佩孚への離反を表明すると、唐生智の先鋒部隊とともに18日、河南省の省境にある湖北省の鶏公山(中国語版)・武勝関鎮(中国語版)を確保した、更に河南省へ再侵入、信陽に撤収していた呉佩孚が鄭州まで逃げるとそれを追い、舞陽・葉県・宝豊に迫った。しかし、樊鍾秀は左派や共産党と近かったことから西山会議派の圧力で補給物資が絶たれたため、南陽に撤収、蔣介石より派遣された黄埔軍校第1期学生の李正韜と蕭灑より輸送機で補給物資を受けた。 翌1927年(民国16年)2月、于学忠の部隊によっていよいよ河南省を追われ、湖北省随県に逃れる。5月、武漢へ兵を進めるも葉挺の部隊と交戦し敗退、河南省と湖北省の省境に逃げ戻った。6月、ついに河南省への北伐が開始されると国民革命軍西路総指揮に任ぜられ、2日、辺随県防地に就き、5日、于学忠・張連丹討伐声明を発した。河南省に再進出し、信陽に展開、更に宝豊で閻日仁の部隊を撃破した。のち第45軍軍長に任ぜられる。7月より軍事委員会委員にもなった。10月の寧漢戦争では、豫軍総司令をつとめている。
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