国民軍とモスクワの奪還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)
「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「国民軍とモスクワの奪還」の解説
ロシア人による第1次義勇軍は貴族とコサックの対立で1611年7月に自壊し、ポーランドによるスモレンスク陥落とスウェーデンによるノヴゴロド陥落でロシアは窮地に立たされたが、正教会に鼓舞された義勇軍の動きは別の場所でも起こっていた。 1611年の秋、ロシア東部の商業都市ニジニ・ノヴゴロドで、市民から尊敬されていた肉商人のクジマ・ミーニンは義勇軍を提唱した。商人ギルドの人々は賛同して反ポーランド民衆軍(第2次義勇軍、第2次国民軍)を組織する資金を拠出した。その使い道を監督するミーニンは、ドミートリー・ポジャールスキー公爵に軍を率いるよう依頼し、ポジャルスキーは了解した。1612年1月、ポーランド軍の一部は給料不払いを理由に反乱を起こしロシアからポーランドへと撤退した。弱体化したポーランド軍を退けて進撃する第2次義勇軍は、各地の反ポーランド勢力を集めてついにモスクワへ達した。 9月1日、ヤン・カロル・ホトキェヴィチ率いる精強なポーランド軍9,000人は、クレムリンの包囲を解こうとして応援に駆け付け、クレムリンに突入しようとするロシア軍と衝突した。ポーランド軍は開けた野原で騎兵による突撃を行い、彼らにとっても新しい戦術である、タボール(tabor, 馬に引かせて移動する馬車状の要塞)を護衛しながら市街地を進むという作戦をとった。最初は成功したもののコサックの援軍により最終的にはホドキェヴィチもモスクワから退却せざるを得なかった。 ポジャルスキー公爵率いる義勇軍のさらなる増援により、クレムリン内のポーランド兵は兵糧攻めに遭い(人肉食も起こったと記録されている)、1612年11月1日に(記録によっては11月6日、あるいは7日に)19か月の攻囲戦の後についに降伏した。11月7日、生き残ったポーランド兵はモスクワを退却した。連合とロシア側の交渉では安全な退路を約束していたものの、退却するポーランド兵の半分がロシア兵に殺された。こうしてモスクワはロシアの手に取り戻された。
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