国民軍の土台作り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 14:40 UTC 版)
その後、段祺瑞により馮玉祥が罷免され、その部下だった楊桂堂が第16混成旅の旅長に昇進する。1917年(民国6年)7月、張勲が復辟を行うと、張之江は同僚の鹿鍾麟らとともに、楊桂堂に張勲討伐を宣言するよう迫った。しかし楊桂堂は単身北京に向かい、張勲に服従した。このため、張之江らは馮玉祥を迎え入れて再び長に仰ぎ、張勲の弁子軍を撃破した。 1918年(民国7年)6月、馮玉祥が湘西鎮守使を兼任して湖南省常徳に駐屯すると、張之江は第2団団長に任命された。1921年(民国10年)5月、第16混成旅は、陝西督軍閻相文に随従して陝西省に入った。7月、第16混成旅は陸軍第11師に改編され、張之江は第22旅旅長に任命された。 1922年(民国11年)の第1次奉直戦争では、張之江は鄭州に派遣され、河南督軍趙倜の軍と戦い、これを撃破した。まもなく馮玉祥が後任の河南督軍に任命され、軍の拡大とともに張之江は第7混成旅旅長に任命された。この時、馮玉祥が士官の資質向上を目指して高級戦術研究会を設置すると、張之江は講武堂監察官として、中下級士官に戦術を教授した。
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