国民軍での奮闘とは? わかりやすく解説

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国民軍での奮闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/01 14:40 UTC 版)

張之江」の記事における「国民軍での奮闘」の解説

1924年民国13年9月第2次奉直戦争勃発すると、馮玉祥第3軍総司令任命され張之江第3軍第1路総司令任命された。9月に古北口方面出撃して奉天派と戦う。10月北京政変首都革命)が起きた時には張之江の軍は承徳にあり、馮玉祥の命を受けて呉佩孚の軍を追撃して破った馮玉祥国民軍成立させると、張之江国民軍騎兵第1旅旅長に任命された。同年12月張之江チャハル察哈爾都統任命され、その地の軍を国民軍編入した。また、この時のチャハル統治では、張之江優れた内政手腕発揮し同地における各種産業近代化貢献している。 1925年民国14年12月8日馮玉祥李景林討伐の命を発すると、張之江総司令として3個路の討伐隊組まれ、鄧宝珊(中国語版)が任丘徐永昌大城県と馬廠鎮(中国語版)を攻略李鳴鐘王慶坨鎮(中国語版)、楊柳青鎮(中国語版)、韓家墅攻略任された。張之江も自ら3個旅を率いて北倉鎮(中国語版)と王慶坨鎮攻略目指した。しかし李景林日本ドイツの軍事顧問指導屈強な陣地構築しており、張之江10日15日までの間に4000人もの犠牲者出してしまう。16日馮玉祥張之江更迭し、李鳴鐘総司令任じた李鳴鐘19日積雪乗じて、白い羊の皮を被った兵に爆竹花火を鳴らさせ攪乱する奇策行い陥落させ、数日後天津陥落させ、李景林敗走せしめた1926年民国15年1月馮玉祥下野追い込まれ北方各派国民軍対す包囲強める。この時、張之江馮玉祥後任として西北辺防督弁に任命される。さらに国民軍全軍総司令となり、北方各派迎え撃った張之江加え、前敵総司令東路総司令務めた鹿鍾麟西路総司令務めた宋哲元らの善戦もあったが、4月張之江北京放棄して南口撤退したその後懸命に北方各軍相手抗戦したものの、8月遂に張之江南口放棄して綏遠方面退却した。 しかし敗北したとはいえ張之江鹿鍾麟宋哲元らの奮闘国民軍保持貢献したまた、中国国民党北伐に対して援護射撃となっている。そして9月15日馮玉祥帰国して五原誓師を行い国民軍国民聯軍に改組して国民党加入すると、張之江引き続き西北辺防督弁をつとめた

※この「国民軍での奮闘」の解説は、「張之江」の解説の一部です。
「国民軍での奮闘」を含む「張之江」の記事については、「張之江」の概要を参照ください。

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