国民軍、国民革命軍での活動
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「呉化文」の記事における「国民軍、国民革命軍での活動」の解説
1920年(民国9年)、呉化文は馮玉祥の軍に加入し、以後順調に昇進していく。1923年(民国12年)、馮の推薦により北京高級教導団に加入した。1925年(民国14年)、北京陸軍大学正則班第7期で学び、1927年(民国16年)7月に卒業する。西北軍洛陽初級軍校教育長兼特務団団長に任ぜられ、後に韓復榘率いる国民革命軍第20師に属した。韓が馮の下を離れて蒋介石に付くと、呉もこれに従っている。 1930年(民国19年)の中原大戦の後に、韓復榘の軍が第3路軍に拡充されると、呉化文は手槍旅(短銃旅)旅長兼済南警備司令に任ぜられている。日中戦争勃発後の1938年(民国27年)1月に韓が敵前逃亡の罪を問われて蒋介石に処刑されると、手槍旅は第28旅に改編されたが、呉がそのまま旅長に留まった。1939年(民国27年)1月、第28旅は新編第4師に拡充され、呉がそのまま師長をつとめている。翌年8月、山東省政府委員兼山東保安第1師師長に任ぜられている。日本軍との戦いでは、呉は当初から八路軍と良く連携しており、後に国共の不和によりこれと対立せざるを得なくなったものの、結果としてこのときの連携が数年後に呉の運命を左右することとなった。
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