国民軍での功績とは? わかりやすく解説

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国民軍での功績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 21:37 UTC 版)

宋哲元」の記事における「国民軍での功績」の解説

1908年光緒34年)、武衛右軍随営武備学堂入学する卒業後は馮玉祥率いる第2営で哨長に任命された。1913年民国2年)、連長となる。以後馮玉祥率いる第16混成旅に所属して中国各地転任転戦し、第2団少校団附に昇進した1917年民国6年)、張勲復辟では、張勲の弁子軍を破る上で功績をあげた。1921年民国10年)には元陝西督軍陳樹藩を、翌民国11年1922年)には河南督軍趙倜を破る上で、やはり軍功をあげた。これにより、宋哲元は第25混成旅旅長にまで昇進している。1924年民国13年10月北京政変首都革命)を経て馮玉祥自軍国民軍改組する。この際に、宋哲元国民軍11師長任命された。翌年には熱河都統就任している。 1926年民国15年1月馮玉祥下野追い込まれる3月ソ連訪問)。そのため、張之江鹿鍾麟国民軍将軍たちは、指導者欠いたまま、北方各派包囲相手に戦わなければならなくなった。この時、宋哲元西路総司令などをつとめ、張之江鹿鍾麟補佐し前線戦った4月国民軍北京放棄して南口拠り、さらに北方各派相手懸命に抗戦した8月、ついに南口放棄して綏遠方面撤退する。ただ、張之江鹿鍾麟宋哲元らの善戦奮闘おかげで国民軍壊滅することなくその形を保持できた。また、中国国民党北伐にも有効な援護射撃となったともいえる。 同年9月馮玉祥自軍復帰する五原誓師を行って国民軍国民聯軍に改組され、あわせて全軍国民党加入した翌年馮玉祥の軍はさらに国民革命軍第2集団軍となる。6月宋哲元はその中の第4方面軍総指揮つとめた11月には、陝西省政府主席就任した宋哲元陝西省内の独立軍匪賊ことごとく掃討し、秩序安定もたらしている。

※この「国民軍での功績」の解説は、「宋哲元」の解説の一部です。
「国民軍での功績」を含む「宋哲元」の記事については、「宋哲元」の概要を参照ください。

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