国民軍での活躍
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私塾教師の子に生まれる。初めは学問を志したが、貧困のため1910年(宣統2年)から軍に加わり、馮玉祥の営に配属された。清末に馮玉祥が灤州起義を起こした際には、韓復榘も参加した。失敗後に韓復榘は帰郷したが、民国成立直後に馮玉祥の下に帰参し、以後第16混成旅や第11師などで順調に軍歴を重ねている。 1924年(民国13年)10月の北京政変後に、国民軍が結成されると、韓復榘は国民軍第1軍第1師第1旅旅長に任命された。翌年春、第1師師長に昇進した。1926年(民国15年)の南口の戦いでは、山西省の閻錫山が国民軍の後背を脅かしてきたため、僚友の石友三とともに山西軍を迎撃、善戦した。しかし国民軍は同年8月に、ついに南口を放棄する。張之江らの本隊は綏遠省へ撤退したが、韓復榘と石友三はそれに従わず、閻錫山に降伏した。 同年9月、馮玉祥が帰国して五原誓師を行うと、韓復榘は馮玉祥の下に復帰し、国民聯軍援陝第6路総指揮に任命された。1927年(民国16年)6月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、韓復榘は第2集団軍第6軍軍長に任命され、中国国民党の北伐に参戦して軍功をあげた。10月、第2集団軍の縮小を経て、韓復榘は第20師師長に任命され、鄭州に駐屯した。12月、韓復榘は馮玉祥の推薦により河南省政府主席に就任した。しかし韓復榘は第20師への指揮権を喪失し、しかも第20師は韓復榘と不仲の石敬亭に委ねられてしまう。これは、韓復榘の馮玉祥に対する反感を掻き立てることになった。
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国民軍での活躍
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父の孫雲亭は清軍の哨官であった。孫良誠は初めは農事に就いたが、1912年(民国元年)より馮玉祥の部隊に参加する。馮玉祥から孫良誠はその才能を見込まれ、その後順調に昇進していく。 1924年」(民国13年)10月の北京政変(首都革命)直前には旅長に昇進した。1926年(民国15年)春、国民軍第1軍第2師師長として蘭州に駐屯した。同年10月には、8か月に渡り西安を包囲していた劉鎮華率いる鎮嵩軍を激戦の末に撃破している。この軍功により、孫は国民軍第4軍軍長に昇進した。 中国国民党の北伐でも、孫良誠は国民革命軍第2集団軍第1方面軍総指揮として軍事的成果をあげた。1928年(民国17年)5月、北京政府軍を掃討して山東省に入った孫は、山東省政府主席に任命された。孫は堅実な山東省統治を実施し、済南事件や北京政府の統治で混乱していた山東省に一定の平穏をもたらしている。 1929年(民国18年)9月、馮玉祥と閻錫山が反蒋介石への立場を表明すると、孫良誠もこれに従い反蒋戦争に参加した。しかし反蒋戦争は敗北に終わる。また作戦上の齟齬から、孫は同僚の宋哲元と激しく対立した。1930年(民国19年)の中原大戦にも参戦したが、反蒋軍は敗退した。
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国民軍での活躍
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初めは学問を志していたが、貧困のために1908年(光緒34年)から軍隊に入る。最初は長春に駐屯していた第3鎮の呉佩孚に属した。1912年(民国元年)から馮玉祥配下に属し、第16混成旅、第11師などで次第に昇進した。 1924年(民国13年)10月の北京政変を経て国民軍が設立されると、石友三は第1軍第8混成旅旅長に昇進した。民国14年(1925年)春、第6師師長に昇進した。1926年(民国15年)の南口の戦いでは、山西省の閻錫山が国民軍の後背を脅かしてきたため、僚友の韓復榘とともに山西軍を迎撃し、善戦した。しかし、国民軍は劣勢となったため、同年8月に南口を放棄する。張之江らの本隊は綏遠省へ撤退したが、石友三と韓復榘はそれに従わず、閻錫山に降伏した。 同年9月、馮玉祥が帰国して五原誓師を行うと、石友三と韓復榘は馮玉祥の下に復帰し、石友三は国民聯軍援陝第5路総指揮に任命された。翌年6月、国民聯軍が国民革命軍第2集団軍に改組されると、第1方面軍副総指揮兼第5軍軍長に任命された。石友三は、中国国民党の北伐に参戦し、山東省で北京政府側の孫伝芳軍を撃破するなどの軍功をあげた。北伐終了後の1928年(民国17年)、軍縮に伴い第24師師長として河南省南陽に駐屯した。
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国民軍での活躍
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1924年(民国13年)、北京南苑の第8混成旅旅長に異動し、同年9月の第2次奉直戦争では古北口外の朝陽地区を防衛していたが、10月に北京政変(首都革命)で北京大総統府を包囲し、国民軍成立後、第1軍第6師師長に昇進した。1925年(民国14年)1月、署理綏遠都統に任命される。五族協和倶楽部を成立させ、道路や橋の整備、植林、学校の設立などに携わった。 12月8日、馮玉祥が李景林討伐の命を発すると、張之江を総司令として3個路の討伐隊が組まれ、鄧宝珊(中国語版)が任丘、徐永昌が大城県と馬廠鎮(中国語版)を攻略、李鳴鐘は王慶坨鎮(中国語版)、楊柳青鎮(中国語版)、韓家墅村攻略を任された。張之江も3個旅を率いて楊村、北倉鎮(中国語版)と王慶坨鎮攻略を目指した。しかし李景林は日本やドイツの軍事顧問の指導で屈強な陣地を構築しており、10日~15日までの間に4000人もの犠牲者を出してしまう。16日、馮玉祥は張之江を更迭し、李鳴鐘を総司令に任じた。李鳴鐘は騎兵、警衛旅と装甲車隊を投入して天津攻略を継続した。 19日は雪が降り積もり、天津城は白く染まった。李鳴鐘はこの機を逃さじと緊急軍事会議を開き、白い羊皮で偽装した「出白兵」を発案する。当日夜、陣地周辺に忍び込んだ出白兵たちは更に爆竹や花火で攪乱、それに乗じて大刀兵たちが突撃し、騎兵、砲兵、装甲兵も総攻撃を開始、楊村は陥落した。数日後、天津城も陥落、李景林は敗走した。 1926年(民国15年)、甘粛軍務督弁に任命されたが、実際に赴任はしなかった(代理は劉郁芬)。その後、京師警備代理総司令兼警備総監に任命されている。
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