しょう‐かいせき〔シヤウ‐〕【蒋介石】
読み方:しょうかいせき
[1887〜1975]中国の政治家。中華民国総統。浙江(せっこう)省奉化(ほうか)の人。字(あざな)は中正。孫文に師事し、黄埔(こうほ)軍官学校を創設、革命軍を養成して北伐を成功させた。のち、国民政府主席となり、反共政策を推進。抗日戦争では国共合作により共産党と協力したが、第二次大戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退いた。チアン=チエシー。
チアン‐チエシー【蒋介石】
読み方:ちあんちえしー
⇒しょうかいせき(蒋介石)
蒋介石
蔣介石
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蔣 介石(蒋 介石、しょう かいせき、チャン・チェシー、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。浙江省寧波府奉化県出身。日本や中華人民共和国では蔣介石の呼び名で知られているが、中華民国(台湾)では蔣中正(しょう ちゅうせい)の名称が一般的である。
注釈
出典
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蔣介石(しょう かいせき)
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「蒼天の拳」の記事における「蔣介石(しょう かいせき)」の解説
国民党軍事委員会委員長。羅虎城が上海で殺されたのを聞き、拳志郎に暗殺部隊を差し向けようとする同士に対し、拳法には拳法で応ずるべきと諌めた。
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蔣介石(蔣中正)
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日本の陸軍士官学校の出で、日本語にも堪能であった。戦後処理の相談をフランクリン・ルーズベルトに持ちかけられるなど、連合国軍首脳随一の知日派として知られた。日中戦争では当初は国共内戦での勝利を優先していたが、中途から徹底抗戦に転じ、対日協力者の粛清など強硬戦略を敷いて、連合国の一員として日本に対し勝利した。戦後は「徳を以って恨みに報ず」という声明を出し、復員を円滑に進め、日本における親華派・親台湾派の形成に寄与した。台湾での独裁政権時では、知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止するなど日本色の一掃を図ったため台湾の本省人には評価が低いが、総統代理として息子の蔣経国を明治神宮へ公式参拝させるなど、日本と良い関係を維持した。
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蔣介石
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蔣介石は『蔣介石秘録12』において事件を次のように回想している。 通州では、29日未明、冀東のニセ防共自治政府の保安隊三千人が、抗日の戦線に投じるために決起した(通州事件)。彼らは日本の特務機関員や守備隊員約三百人をせん滅し、ニセ政府の主席・殷汝耕を逮捕、北平へ押返しようとしたが、日本軍の反撃にあい、殷汝耕の身柄は奪いかえされた。▶日本側によると通州事件の犠牲者は、日本人104人(うち冀東政府の職員、関係者80人)および朝鮮人108人である。そのほとんどが戦闘員であったため、日本側は残虐事件として大きくとりあげた。◀ 北平、天津の戦いによる第29軍の死傷者は5000人を超えた。 — 蔣介石、『蔣介石秘録12 日中全面戦争』昭和51年、p.44
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「蔣介石」を含む「通州事件」の記事については、「通州事件」の概要を参照ください。
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