蔣介石との対立
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1927年(民国16年)春、上海法政大学の再開に伴い、張知本は同大学の董事兼校長となった。蔣介石が権力を掌握し、武漢国民政府が合流した後の9月、張は政界に復帰し、湖北清党委員会主任委員に任ぜられる。この時から、胡宗鐸・陶鈞ら新広西派(新桂系)の指揮官と交流を深めていく。10月、武漢に成立した湘鄂臨時政務委員会(主任:程潜)において張は委員兼民政処長となった。さらに湖北省党務指導委員会では組織部長となり、省党部に改組されると訓練部長になっている。11月、張は新広西派(新桂系)の支持を得て湖北省政府主席に就任した(正式就任は翌年1月)。 1928年(民国17年)5月、国民党武漢政治分会(主任:李宗仁)が成立すると、張は同分会委員となり、1929年(民国18年)初めには張が代理主席を務めている。しかし、蔣桂戦争が勃発すると、張もこれに巻き込まれる形で新広西派の一員と目されてしまった。新広西派敗北と共に張は下野に追い込まれ、再び国民党党籍剥奪処分を受けている。この事件以後、張知本は本格的に蔣介石への反感を抱くようになった。下野していた間、張は法学者として上海で著作に専念し、『憲法論』・『社会法律学』・『憲政要論』等の著作や翻訳を刊行した。これにより、張は王寵恵・董康・江庸と共に当時の四大法学者と目されている。 張知本は反蔣介石活動にも積極的に参加し、1930年(民国19年)には反蔣の北平拡大会議に出席している。翌1931年(民国20年)2月に胡漢民が蔣により軟禁され広州で反蔣の国民政府が組織されると、張はこれにも参加した。満州事変(九・一八事変)勃発と共に各派大同団結の動きが出ると張はそのための交渉に参画し、各派和解の後の第4回全国代表大会で中央執行委員候補に選出されている。 翌1932年(民国21年)、張知本は国民政府民衆訓練委員会主任委員に就任したものの、まもなく蔣と民衆訓練の手法をめぐって対立、辞任した。1933年(民国22年)1月、孫科が立法院長になると、同院憲法草案委員会委員長を兼ねた孫から張は副委員長に任ぜられ、中華民国憲法の起草を主導し、同年8月には憲法草案を完成させた。しかし蔣の権限を抑制しようとする張の草案は、蔣の横槍で採択に至らず、蔣の意を受けたもう1人の副委員長呉経熊の草案が1934年(民国23年)10月に採択されてしまう。これには孫や張は激しい不満を抱いた。
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