蔣介石との対立とは? わかりやすく解説

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蔣介石との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:35 UTC 版)

張知本」の記事における「蔣介石との対立」の解説

1927年民国16年)春、上海法政大学再開に伴い張知本同大学の董事校長となった蔣介石権力を掌握し、武漢国民政府合流した後の9月、張は政界に復帰し、湖北清党委員会主任委員に任ぜられる。この時から、胡宗鐸・陶鈞ら新広西派新桂系)の指揮官交流深めていく。10月武漢成立した湘鄂臨時政務委員会主任程潜)において張は委員民政処長となった。さらに湖北省党務指導委員会では組織部長となり、省党部に改組されると訓練部になっている11月、張は新広西派新桂系)の支持得て湖北省政府主席就任した(正式就任翌年1月)。 1928年民国17年5月国民党武漢政治分会主任李宗仁)が成立すると、張は同分委員となり、1929年民国18年初めには張が代理主席務めている。しかし、蔣桂戦争勃発すると、張もこれに巻き込まれる形で新広西派一員目されてしまった。新広西派敗北と共に張は下野追い込まれ、再び国民党党籍剥奪処分受けている。この事件以後張知本本格的に蔣介石への反感を抱くようになった下野していた間、張は法学者として上海著作専念し、『憲法論』・『社会法律学』・『憲政要論』等の著作翻訳刊行した。これにより、張は王寵恵董康江庸と共に当時四大法学者目されている。 張知本は反蔣介石活動にも積極的に参加し1930年民国19年)には反蔣の北平拡大会議出席している。翌1931年民国20年2月胡漢民が蔣により軟禁され広州で反蔣の国民政府組織されると、張はこれにも参加した満州事変九・一八事変勃発と共に各派大同団結動きが出ると張はそのための交渉参画し、各派和解の後の第4回全国代表大会で中央執行委員候補選出されている。 翌1932年民国21年)、張知本国民政府民衆訓練委員会主任委員就任したものの、まもなく蔣と民衆訓練の手法をめぐって対立辞任した1933年民国22年1月孫科立法院長になると、同院憲法草案委員会委員長を兼ねた孫から張は副委員長に任ぜられ、中華民国憲法起草主導し同年8月には憲法草案完成させた。しかし蔣の権限抑制しようとする張の草案は、蔣の横槍採択至らず、蔣の意を受けたもう1人副委員長呉経熊の草案1934年民国23年10月採択されてしまう。これには孫や張は激しい不満を抱いた

※この「蔣介石との対立」の解説は、「張知本」の解説の一部です。
「蔣介石との対立」を含む「張知本」の記事については、「張知本」の概要を参照ください。

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