蒋介石との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 03:31 UTC 版)
1926年(民国15年)3月、李宗仁の軍が国民革命軍第7軍に改組されると、黄旭初は第7軍第4旅旅長に任ぜられた。6月、李が北伐のため出撃すると、黄旭初は黄紹竑とともに広西の留守を担当している。翌年4月の上海クーデターに際しては、黄旭初はこれに呼応して、省内の中国共産党派人士を粛清した。 7月、第7軍第6師師長に昇進して、広東省に赴く。8月に南昌起義が起きると、この鎮圧に参戦している。11月、粤軍(広東軍)の張発奎・黄琪翔が反蒋介石の挙兵をなすと、黄旭初は虚を衝かれて一時逃亡した。しかし翌月に反撃に転じて、反蒋粤軍を撃破した。この軍功により、国民革命軍第4集団軍第15軍副軍長兼第2師師長に昇進している。 1929年(民国18年)3月、蒋桂戦争が勃発すると、黄旭初も桂軍として蒋介石軍と各地で戦闘を展開した。しかし6月、粤軍との戦闘で勝利しながらも負傷し、香港へ一時治療に赴いている。翌年の中原大戦では南寧を守備し、蒋派として侵攻してきた盧漢率いる滇軍(雲南軍)を持久戦の末に撃退した。しかし中原大戦自体は、反蒋派の敗北に終わっている。
※この「蒋介石との戦い」の解説は、「黄旭初」の解説の一部です。
「蒋介石との戦い」を含む「黄旭初」の記事については、「黄旭初」の概要を参照ください。
蔣介石との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:50 UTC 版)
蔣介石が李済深を捕らえるなどの挙に出たこと、また、新広西派の軍事力を削減しようと図ったことに不満を覚え、1929年3月、李宗仁は蔣介石に反旗を翻して挙兵した(蔣桂戦争)。しかし同年6月、広西省で部下の兪作柏らが兵変を起こしたため敗北を喫し、香港へ逃亡した。それでも同年に広西省内が混乱したため、兵変を起こした軍人たちに李宗仁は再度呼び戻され、新広西派の指導者として復帰した。李宗仁は「護党救国軍」を組織し、1930年、中原大戦に参戦したが、蔣介石に再び敗北した。 1931年5月、反蔣介石派の軍人・政治家が広州非常会議を開催すると、李宗仁の新広西派もこれに参加し、西南派を結成した。だが9月満州事変の勃発もあって西南派は蔣介石との大同団結に回帰するが、新広西派の国民政府内における勢力は、これにより大きく強化されることとなる。李宗仁・白崇禧は、広西統治において「三自三寓」政策を実践し、軍事・内政・財政など様々な方面で改革に大きな成果をあげている。
※この「蔣介石との戦い」の解説は、「李宗仁」の解説の一部です。
「蔣介石との戦い」を含む「李宗仁」の記事については、「李宗仁」の概要を参照ください。
- 蒋介石との戦いのページへのリンク